石田神社
石田神社拝殿
石田神社 獅子舞
石田神社古墳
この神社には広い天然の森があるので、鳥居をくぐると神秘さが肌に伝わってくる。更に進んで随身門というこの神社を守っている神様のいる門を入ると、真正面に「拝殿」と呼ばれる礼拝するために建てられた桁行5間、梁間3間の大きな建物が見える。
その建物の後に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇をお祀りしている「本殿」と呼ばれる銅板葺で反りのある屋根を持つ約8mの立派な建物がある。
応神天皇をお祀りしている神社を「八幡宮」又は「八幡神社」と言うので、この神社も昔は「小十九間八幡神社」と呼ばれ、「鎮守さん」とも呼ばれて、氏子はもちろん、領主(お殿様)からも敬われていた。
今の石田神社という名前になったのは明治4年(1871)からである。この石田神社は承平6年(936)に造られた古い神社で、境内は広く(9万㎡)風致に富み、「讃岐百景」に選定されている。
その境内には黒木安雄先生撰文、乃木将軍揮毫の記念碑もある。また、古代遺跡や古墳群がある。
大蓑彦神社
この神社は延喜式(醍醐天皇の延喜という時代に作られた施行細則)の巻九「新明帳」に載っているので、古くから有名で、格式の高い神社であったことが分かる。
このような神社を「式内社」と言い、香川県には24社がある。この中の3社が寒川町内にある。
鳥居を潜ると、42段の石段がある。この石段を上がると広前に出る。狛犬、注連柱の向こうに、最近改修したばかりの、拝殿、その奥に幣殿、更にその奥、7段の石段の上に一間社の桧皮葺き、銅板覆いの本殿が建てられている。
この本殿の主は、「蓑神」という自治会名の由来と言われているが、どのような神様なのかは未詳である。
古書には、「この神社は元、明神池の東の山腹に北向きに祀られていたのを、現在地に移転した」とある。
布勢神社
布勢神社は、香川県内の「式内社」24社の中の一つで、昔から「布勢の宮」と称し信仰され、小字名「現在の自治会名」の由来にもなっている神社である。
しかし、この神社がいつ、誰によって創建されたのかは全く分かっていない。
ただ、お祀りされている神様のお名前が「大彦命」といって、孝元天皇(第8代)の皇子で、崇神天皇(第10代)の時に、征討に派遣された四道将軍の一人であり、安倍氏、布勢氏共通の祖先でもあるので、天平元年(729)以前に、この2氏によって「祖神」として創建されたものであろうという推論はある。
また戦国時代に、「兵火で社殿が焼失した」、「否しなかった」と正反対の記述をしている本があるが、いずれにしても、現在の拝殿は宝永5年(1708)5月に再建されたもので、文化5年(1808)に社殿が修復されている。
拝殿は横11m、縦5.3m入母屋造り瓦葺きで、そのすぐ後ろに幣殿があり、更に後ろに1.2m離れて小型ながら千木のある格調高い本殿がある。境内は広1749㎡で社叢もある。
男山神社
男山神社拝殿
「男山神社」と刻まれた石標が立っている参道正面の石段を上がると、狛犬が迎えてくれる。
そのすぐ前の鳥居を潜ると左側に御手洗いがある。ここで心身を清めてから随身門と呼ばれる、この神社をお守りしている神様が祀られている八脚門を通りぬけてお参りをする。
千古の社叢に包まれた境内は厳かさが漂うが、急な石段を上がると、石段の奥に立派な拝殿がある。
その奥に、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇をお祀りしてある「三間社」と言われる、一辺に4本の柱が立てられている正方形の本殿がある。
この神社は、醍醐天皇のご命令を伝える公文書を受けた宝蔵院住職の明海法印という偉い坊さんが、延喜7年(907)4月に、京都男山山頂にお祀りされている岩清水八幡宮の分霊をお迎えして建てられたもので、「神前八幡宮」と呼ばれていた。
現在の建物は寛永2年(1625)に再興されたものである。明治になって「男山神社」と改称され、昭和になって社殿が改築されて現在に至っている。
神前神社
神前神社神殿
讃岐二十四社のなかの3社が寒川町内にあり、その一つがこの「神前神社」である。
「神前明神」とも言われ、土地の人々は「こうざきさん」とか「みょうじんさん」と呼んでいる。
玉垣に囲まれた境内正面の鳥居をくぐると、狛犬・注連柱の向こうに横5間の立派な拝殿がある。
その奥に猿田彦命をお祀りしてある銅板葺きの神殿が建っている。
現在は、男山神社の境外末社であるが、もとは神前村村社であった。
また祭神についても「応神天皇」と言う説もあるがこの神社はいつできたかはわからない。
また神前という地名は猿田彦命の天孫の御前奉仕に由来して神前(カムサキ)となったといわれている。
神殿の西側には白色凝灰岩製の石仏(仏像・神像両説がある)が祀られている。
徳勝寺 (真宗本願寺派 醍醐山厭傾院徳勝寺)
徳勝寺本堂
細川実弘は、南朝方の菩提を弔うために「上醍醐寺」を建立した。
長子金氏を出家させ、勇閑法師として初代住職にした。(この寺の建立年月日は未詳で、兵火にかかって3代で廃頽している。)
布施神社の神主、布施筑後高教(ちくごたかのり)の嫡子高祐(たかすけ)が長禄2年(1458)9月28日、布施の社殿で通夜をした際に「上醍醐寺を再興せよ」との神託を受けた。
感動した高祐は、寛正元年(1460)に名を高祐(こうゆう)と改めて上醍醐寺を再興し、この寺を「上の坊」と言った。
そこでこの寺では、勇閑を草創の初代、高祐を中興の初代とした。
この寺は元天台宗であったが、高祐が蓮如上人(れんにょしょうにん)から念仏門の奥義を受け、安阿弥(鎌倉時代の日本一と言われた仏像作りの名人、快慶(かいけい)の号)作の木仏(現本尊丈60cm)と六字の名号を賜って一向宗に改宗している。
寛永17年(1640)第9世教通(きょうつう)が、蓮如上人から石山合戦の功績を愛でて「徳勝寺」の寺額を受けたのに伴い、寺名を徳勝寺と改称して現在に至っている。
光明寺(真宗本願寺派 紫雲山蓮華院光明寺)
光明寺本堂
この寺は、明応年中(1492〜1501)に正善という坊さんによって造られた。
そして、明暦(1655〜1658)に正覚という沙門(しゃもん:仏の道を修めようとしているお坊さん)によって現在地に移転されたと言い伝えられている。
現在、この寺が建っている土地(境内)は石田城跡で、段状地になっている。
元の寺は、現在地の東北約150mの地点にあったと言われている。
この寺は元は天台宗であったが、一向宗に転じ、徳島の東光寺末となり、更に安永7年(1778)(1778)に興正寺末となり、現在は本願寺派になっている。
現在の本堂は平成3年に再建されたものである。
本尊は阿弥陀如来(丈54㎝、台座の高さが35㎝)で、安阿弥作と言い伝えられている。
親鸞上人筆の六字名号があったというが現存しない。
繁昌院 (真言宗善通寺派 東流山繁昌院神応寺(じんのうじ))
繁昌院本堂
創建は、寛永5年(1628)で、左近将監入道證雲の開基と伝えられている。
本尊は不動明王で、当地の城主安富公の守り本尊として、また近郷の人々の心の砦として信仰を集めていた。
この不動明王は、一名「一事不動」とも呼ばれ、方位厄難除け、学業向上、病気平癒等に、殊の外霊力顕著と伝えられる木像の立像である。
当山の詠歌は元はと言えば、こうして霊験に浴した人々の声であり、そのありがたさをそのまま歌にして歌われたものと言えよう。
あなとうと あゆみもかるき はんじょういん
ふどうのちかい あらたなりけり
この寺の特色の一つは、境内に日本で一体だけといわれる石像の「馬鳴菩薩」が祀られていることである。
この菩薩は中国における民間信仰が生み出したと伝えられ、そのご利益は供養に感応して衆生に福をもたらすこと無限と言われ、特に女性の願いを叶え、衣服・縁談等の祈願には霊験あらたかとのことである。
宝善寺 (真言宗大覚寺派 南流山利剣院宝善寺)
宝善寺本堂
宝善寺は元男山神社の別当時で男山神社の西隣にあったが、明治維新直後の神仏分離で廃寺となった。
土地の人々は廃寺を惜しみ、存続を願った。
明治13年、国方甚吾らの奔走により寺号再興願を県へ提出して認可された。
村民の喜捨(きしゃ:神社や寺へ進んで行う寄付)で、元の場所から約200m西の現在地に藁葺きの本堂兼庫裡(くり)を建立した。長尾町の極楽寺へ移されていた仏像も迎え入れて再興できた。
別当時時代の建物は、明治28年に隔離病舎として移転された。
昭和34年に、本殿兼庫裡が老巧破損したので改築された。更に、昭和58年には本堂が西隣に新築されて現在に至っている。
本尊は、丈56㎝の不動明王立像である。
脇仏は、阿弥陀如来立像2体のほかに観音菩薩像、勢至菩薩像、弘法大師像がそれぞれ厨子の中に安置されている。
この本尊を始め諸仏像は、男山神社の別当時時代の宝善寺の持仏で、鎌倉時代から室町時代にかけての作と推定されている。