船井の薬師如来坐像
船井自治会の集会場横に薬師堂がある。この御堂は、現在地より1キロほど北にあったという。
そして、いつしか荒れ果てていた。
明治の終わりごろに、神前一円に赤痢が流行したことがあった。この時に、この薬師如来の祟りだと言い出す者がいて、慌てて、現在位置に新しく寄棟造りの堂宇を建て、その荒れ果てていた堂から本尊を移してお祀りしたところ、赤痢の大流行は次第に止んだと言われている。
御堂は2間4面、内部は6畳の畳敷きで、祭壇中央の厨子の中に、凝灰岩製で、高さ50㎝ほどの薬師如来坐像が安置されている。
この石像は、室町時代(1392〜1573)の作と言われている。
この坐像の右脇に、同じく凝灰岩製で、他から移されたものと言われているが、3体の仏像がある。
この中の1体は、お姿から拝察して、地蔵菩薩だと言われており、南北朝から室町時代にかけての頃の古仏である。
この御堂は、大正時代には参拝者が多かったらしい。
神前神社の石仏 さぬき市指定彫刻
この石像は、白色凝灰岩製で、風化が進んでいるため仏像か神像か判別が難しい。
仏像説では、この像を横から見るとやや前かがみになっていることから仏像でなかろうかと言い、
造像当初は、全身立像で”、鎌倉時代末期か室町時代初期頃の地蔵菩薩像、又は、薬師如来像と推定されている。
神像説では、この像の顔の真ん中辺りが高くなっているので、猿田彦命ではないだろうかと言う。
また、旧神前村八幡宮並末社由来帳に、山崎「具名登二社」という記載が残っているのが、この石像でなかろうかとも言う。
近辺の人は”おふなたさん”と呼んでいる。「具名登(くなと)」は「久那斗」・「岐(ふなど)」とも書かれ、日本書紀には「是を岐神と申す。此れ本の号は来名戸の祖神と日す。」とあり、旅人を守る道祖神であるという。
人は自分の生涯のどこかで、信ずるものを失いかけることに出会う。そんな時、石像であれ、木像であれその中に神を求め、仏を信じる心の寄りどころを探して祈る。救われたい人の弱さを、この像はじっと見守り、安らぎと生きる喜びを与えてきたに違いない。
馬鳴菩薩像
神前小学校から南へ約100mの地点に、東流山・繁昌院・神応寺という寺がある。
この寺の境内に、日本でただ1体のみという珍しい「馬鳴菩薩」の石像が安置されている。
「馬鳴」というのは、サンスクリット(古代のインド語の1つ)のAcva(馬)Ghosah(鳴る)の意訳である。
「馬鳴儀軌」という馬鳴菩薩のお姿や功徳について書いてある経典によると、「六臂で白馬に乗り、常に檀家や国土に大光明を放って、絹や綿や財宝を成就させようとしている。だから供養すれば限りない幸せを得られる。」といった意味のことが書いてある。
また「別尊雑記」や尊容鈔という仏や菩薩の形像を説明している本には、六臂で白馬に乗っいることは前記と変わらないが、「蚕を守護する菩薩で、乗っている白馬の口取りをする二童子が左右にいて、左側は矜迦羅(不動明王の八大童子の第7番目童子の名前)のようである。」と記されている。
因みに、この寺の本尊は「一事不動」である。
新川庵経幢 さぬき市指定建造物
北側の石幢の高さ2.3m、南側の石幢の高さ1.76mで、もと笠塔婆であったと思われるが、願掛けのために建てられた供養塔と言われている。
石造建築物の一つである「石幢」は、中国では唐代に既に建てられていたらしいが、わが国では鎌倉末期のものが最古で、室町時代のものが多いという。
新川庵にある二つの石幢は風化が激しく刻字の判読は難しく、「閏2月」と「12月」「再2月」、「右近」と「左近」、「無主」と「兵主」などの異論はあるが、北側の石幢の裏側には、「永仁3年(1395)乙未閏2月(再2月)5日(12月5日)願主左(右)近将監無(兵)主守俊敬白」という刻字がある。
二つの石幢ともに大きいので、古さと大きさで希少価値は高い筈であるが、この二つの石幢は、もと神前八幡宮にあったものが弁天社(現在の新川神社)へ、そして現在地新川庵へと移されたとされており 、その移転の過程で、残念なことに、石幢を構成している部品の石が別個のものの取り合わせになってしまっているという。
神前88か所
四国88か所霊場巡りは、室町時代頃から一般庶民の間で行われるようになり、江戸時代になって盛んになった。
それとともに、殊更多くの日数をかけて巡拝しなくても小地域内に88か所を設けて巡拝すれば、同じご利益があるという信仰形態も生じた。
小豆島の島四国は有名であるが、わが寒川町にも神前中村の宝善寺境内から始まり、男山の頂上を47番とし、西北に下って小峠を終点とする延長1キロの「神前88か所」がある。
この88か所は安政6年(1858)に設けられた。
いつしか寂れ、参道も雑草や樹木が生い茂り、一部では土砂崩れもあり、殆ど通行不能の状態まで荒廃した。石仏も破損がひどく、散逸してしまったものも相当数に上るようになっていた。
このような状態を憂慮した有志が相談し、昭和54年に復旧作業を行って創建当時の姿を再現した。
このことを記した碑(撰文は当時の寒川町長児玉勇一)が宝善寺境内に建立され、その裏面に世話人の氏名が刻まれている。
十三塚
八坂町の大日堂の前に、昭和9年10月20日建立で、毎年9月20日に供養が行われている「十三塚」と刻まれた自然石がある。
「十三塚」は県内の所々にあるらしいが、当地の十三塚は元々東王田池の堤下に、約200mにわたり東西一列に十三の土盛りがあり、その上に凝灰岩製の塔が置かれていたという。
「石田村誌」には「明治30年頃から次第に取り除かれ昭和6年現在4基残る」と記され、「寒川町史」には「2基残る」とある。
「十三塚」の由来については、諸説ある中で「斑足王が13人の子を殺したから」とするものと、「中世の信仰で、父母が死んだ後、三日目、初七日、二週日、三週日、四週日、三十五日、六週日、四十九日、百日、一周忌、三周忌、七周忌、十三周忌の各法事に1基ずつ塚を築き都合十三になったもの」とするものが有力である。
当地の「十三塚」の主については、「屋島の源平合戦で敗れた平家の落人13人」と「雨滝城の落ち武者13人」という2つの伝説がある。
小倉寺の道標
旧地蔵庵(現、中央通り集会場)入り口の道端に、天平7年(735)に、行基菩薩が創建したと言い伝えられている小倉寺(現在は廃寺)への起点になっていた丁石が建っている。
古老の話では、元は約20m西に立っていたのを現在位置に移したとのことである。
この石は、吉野川から搬出されたのではないかと思われるほど鮮明な緑色の大きな自然石である。
その中央上部に薬師如来の種字「バーイ」、その下に、「小倉薬師道」と大きな字で深くくっきりと刻まれている。
その右側にやや小さい字で、「文化5年戊辰(つちのえたつ)2月建」と細いが明確に彫られている。
左側には、上部に「従是(これより)27丁半」、その右下やや中央寄りに「地蔵講中」と、これまた2世紀近くも経っているとは思えないほどくっきりと彫られている。
つい最近まで、ここから南へ約3kmの地点にあった小倉寺への参道に、27の丁石が立っていたが、現在は、大末自治会の「堅牢地神宮」境内入り口と、寒川自動車学校の南側旧道、川の反対西側に立って入るもの以外の24個は散逸している。
ひじりごさん
北野間田に通じる鴨部川に架かる「野間橋」から北西方向の田の中に、やや大きい塚がある。