投げ飛ばされた馬の絵

さぬき市寒川町の民話を史跡とともに紹介します

Last Update 2017/7/31

おすぶち と めすぶち

おすぶち と めすぶち

小倉の地神宮から川の流れに沿って下ること150m位の所に、上を雄渕(おすぶち)、下を雌渕(めすぶち)という2つの渕があります。

 

巨大な岩につつまれ、まわりは木々がおい茂り、昼なおうす暗く、渕のまわりをのぞきこむと、不気味でありました。
この渕は底知れず、大蛇が、住んでいると言われていたので、誰も近づかず、水泳するものもありませんでした。

  この雄渕から前山のあゆ返りの渕まで通じていると言われていました。
ここから木のおわんを流すと、前山まで流れて行ったともいわれています。

昔、大かんばつに見舞われた時、里人はこの渕の上に高座を組み、法力のすぐれた修験者を招いて、昼夜を通して雨乞いの祈とうをしてもらいました。

夜明け前と思われるころ、直径30Cmのケンドくらいの大きな「くも」が現れ、らんらんたる眼光で里人を見ていましたが、すぐに姿を消しました。
すると、一天にわかにかきくもり、雷とどろく見る間に大雨が降り出し、里人は大喜びをしたそうです。

城屋敷のゆうれいの話

城屋敷のゆうれいの話

光明寺のすぐ北の台地を城屋敷といいます。天正の昔、石田地頭細川則弘の屋敷でした。

光明寺と城屋敷の間にある小道は、昼までもうす暗く竹やぶが覆いかぶさったさみしい所であり、今も昔もかわりありません。そんな不気味な小道の横に石田城がありました。

その城は、土佐の長宗我部に滅ぼされたということです。
それ以来、この道を夜中に通ると美しい女が長い髪をたらして、ゆうれいとなって毎晩現れました。

いつのころからかわからないが、森広に勇敢な男が住んでいました。
ある晩のこと、布施へ遊びに行って夜中になってしまいました。その男は平気で、その道を通りました。
城屋敷に来ると、うわさどうり美しい女が長い髪をたらして、悲しそうに語りかけてきました。

「私は、この城の姫でした。長宗我部に城を焼かれ、城と共に討死にしたのです。しかし、だれも供養してくれませんので、みんな成仏できず困っています。
 どうぞお願いです。私達の髪を剃って、お坊さんにお経をあげてもらって下さい」 と言ってたのみました。

男は「よし。わしが髪を剃ってやろう」と、ゆうれいと約束しました。
次の日、男は剃刀(かみそり)をしっかり研いで、夜中に城屋敷へ行きました。すると、たくさんの女のゆうれいが現れました。男は約束どおりみんなの髪を明け方までかかって剃りあげました。

そして、その朝お寺へお願いして、お坊さんにありがたいお経をあげてもらったそうです。
それ以来、ゆうれいは出なくなったそうです。

弓の名人 細川国弘物語

弓の名人 細川国弘物語

 今からおよそ400年ほど昔、石田の地頭細川則弘(のりひろ)の城に男の子が生まれ、名前を細川国弘(くにひろ)とつけました。この国弘は、武芸に富み、勇気ある武士に成長しました。

国弘13歳の時、夢の中に石田神社。の神様が現れ、「汝に弓揃(ゆみや)の術を与えん」と金の弓矢をいただく夢を見ました。目がさめてまくらもとを見ると、榊(さかき)の枝がおいてありました。国弘は、それより弓の練習を積み重ね、弓の名人と言われるようになりました。

国弘18歳の時、小倉の道を通っていると、老婆の妖怪(ようかい)が現れ通るじゃまをしました。
国弘が老婆に石を投げつけると老婆はとび去り、馬になってまた国弘をおどろかせました。今度はその馬を投げると大きな石になってしまいました。
これを「おんば石」と呼んでいます。この石は、畑のまん中にあるので横へ動かすと、また元の所へもどっていると言われています。今も小倉の道路東側におかれています。

また、ある時、小法師2人の妖怪が現れ、村人にいたずらをくり返していました。
ある日、小法師2人が国弘を困らせたので国弘は2人を両手につかみ、池に投げこむと、2人は巨大な1人となって、また国弘をまどわせました。国弘は秘術でこれを封じこめると、それ以後妖怪は現れなくなりました。
その妖怪の入った池を「足跡(あしめ)池とよび、上上内(かみあげうち)の東南にあります。

ある時、国弘は弓の腕前を試そうと村人をあつめ、弓場を鷺(さぎ)の森(石田城の西北)に造りました。
そして、西の地蔵川の川原に6本の扇を立て、5人張りの白い弓で矢を引き放ちました。その矢は6筋に見えて、6本の扇にみごとに命中しました。村人達は、これを見て「希代の弓執り」とほめそやしました。

次に、7寸のかぶら矢を引き放つと、矢がくるくると回りながら、周り1尺あまりある松をみごとにたおし、みんなをおどろかせました。

今度は、川原に白い杖(つえ)を立てて、これを的として矢を1本ずつ放つと、二つの矢が一度に杖に当たりました。村人達は、拍手して大喜びしました。

国弘の墓は、上上内にあります。この墓石は国弘が小倉山でみつけたものです。高さ5尺、幅5尺、厚さ7尺の大きい石を「我、死すればこれを墓石にせよ」と言って、小倉山から背負って帰ったそうです。
今も、みんなから「国弘の墓」とよばれ、信仰されています。

吉野のお地蔵さん

吉野のお地蔵さん

吉野のおじぞうさんの西南側は浦谷池(うらたにいけ)になっています。この池は、水深4〜5mくらい。堤は急ですりばち状になっています。
子供達はよく泳いだが、だれもおぼれる者はいませんだした。

昔、この池で泳いでいた男の子が、おぼれて見えなくなりました。
一緒にいた友達は、泣き叫んで大人をよびました。大人は、すぐ来てくれましたが、どのあたりに沈んでいるのかわからず、手のつけようがありません。

その時、池の中央におぼれた男の子がうかび上がってきました。それと共に、まっ黒い雲が出て、南西の強風が吹き、浮かび上がった男の子をおじぞうさんのある岸の方へ押してきました。
「それーっ」といって、大人がとびこみ、岸へひきあげ、おじぞうさんの前で、人工呼吸をしました。まもなく息をふきかえし、男の子は生きかえったということです。

この、吉野のおじぞうさんは、子供の好きなおじぞうさんとして、親しまれているそうで、今も。7月23日には、大末地区でおまつりをしているそうです。

十三人のお塚さん

十三人のお塚さん

元暦(げんりゃく)2(1185)年、屋島の壇の浦で源平合戦がありました。その戦で、源氏が勝ちました。
やぶれた平氏の軍の13人が、八坂町へ逃げて来たそうです。その時、13人はすでに力つきており、八坂町のあちらこちらで死んでしいました。

村人達は、

「かわいそうに、戦いはいやじゃ、いやじゃー」
「みんなで、お塚様をたてよう」
 そう考えて、13人の者が死んだ所に一つずつ、13柱のお塚様をたてました。
 みんなは、はじめはおまいりしていましたが、しだいに忘れはじめました。

 そのうち、家がたち、道路ができ、土を掘りおこしているうちにお塚様もどこかへ移り、わからなくなってしまいました。

「お塚様は、どこへ行ったのかのう?」
 みんなも、忘れてしまっていたのでした。

 そして、何年か後、この八坂町に赤痢がはやり、何人かの人が死んでしまいました。
「苦しくて死にそうじゃ。これはお塚様のたたりじゃー
みんなは、はっとしてお塚様のことを思い出しました。

「わたしらは、あの時からお塚様へまいっていない」
「今からおまいりするゆうても、お塚様がどこにあるかわからん」
「そうだ。13塚をつくろう」
「13塚?」
「そうだ。13あったお塚様をひとつにして13塚じゃ
「そうじゃ。大日堂の前にたてよう」
 村人みんなで、お塚様づくりにはげみ、みんなで一生けんめいおがみました。

 すると、赤痢で苦しんでいた人もだんだんよくなり元気になりました。
「やっぱり、たたりだったんじゃのう」 と村人は言いました。
今も13塚にはいつもきれいなお花を供え、村人がおがんでいます。