三角縁神獣鏡

さぬき市寒川町内の貴重な文化財・史跡や出土品を紹介します。

Last Update 2017/7/30

巴型銅器

東京国立博物館所蔵の複製品8点をさぬき市歴史民俗資料館にて展示しています。

森広遺跡から一括出土した巴形銅器8点

明治44年(1911)5月、県立石田高校から南約500mの森広天神社境内東側を開墾作業中、地下約30㎝の深さから巴形銅器8点が一括して発見された。
他に遺物を伴なわなかったようで、巴形銅器のみを一括して埋納した状況であることがうかがえる。

形態は、すべて7脚だが、頂部の径が大きく器高の低いもの3例と、頂部の径が小さく器高の高いもの5例にわけられた。
このての銅器には7脚前後のものと、4脚のものと2種類あるが、弥生時代のものは7脚である。

銅器の用途、使用方法は魔除け的な柔呪術性を帯びた器物であったと考えられている。
弥生時代に属するものは全国で22例しか発見されていない珍しい器物である。

これらは、現在すべて東京国立博物館に所蔵されているが、さぬき市歴史民俗資料館でも、巴形銅器の複製品が展示されており、常時見ることができる。

さぬき市の森広遺跡で明治時代に出土したこの巴形銅器の3点は、福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群で1998年に出土した弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されたものであると、九州大埋蔵文化財研究室は平成20年4月17日発表した。
鋳型を東京国立博物館所蔵の銅器と重ねたところ脚の形や相互間の寸法、裏面の文様がすべて一致したという。九州の巴形銅器が四国に渡り流通していたことになり、誠に興味深い発見といえる。

布勢遺跡

布勢遺跡から出土した弥生時代終末頃の勾玉と土器写真

さぬき市歴史民俗資料館所蔵

石田神社の鎮座する低丘陵端から、北に広がる標高34mほどの沖積台地がある。布勢遺跡はこの台地上の微高地に営まれた集落遺跡である。

昭和52年(1977)、香川用水建設工事と県道バイパス工事に伴い発掘調査が実施された。この結果、現地表面下70〜80cmで溝が検出され、弥生時代終末期から古墳時代初頭、6世紀代の古墳時代後期並びに中世の室町時代ごろの遺物として、多量の土師器・須恵器類(香川県埋蔵文化センター所蔵)と、勾玉3個が出土した。
勾玉は、長さ6.1cm・4.5cm・3.2cmでいずれも丸みを帯びた古式の特徴を示す。

この溝より下位の砂質土層からも、弥生時代中期末ごろから後期にかけての土器が多量に検出されたが、これは遺構に伴われるものではなく、更に南域の丘陵地帯から流れ込んだものと考えられている。

雨滝山奥古墳群出土品 さぬき市指定考古資料

三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡の裏面の写真

さぬき市歴史民俗資料館所蔵

この銅鏡は、昭和47年ゴルフ場建設に伴う発掘調査により、奥3号墳の石室から出土した。
3号墳のある奥古墳群は、雨滝山から西方に広がる丘陵に約20基の古墳で構成されていたが、現在高松スポーツ振興カントリークラブとなっている。

3号墳は古墳時代最古級のもので、丘陵の最高地点標高120mの尾根頂上部にあって、この古墳群中最も規模が大きく、全長37mの前方後円墳で、竪穴式埋葬施設2基が埋地されていた。

遺物は銅鏡・鉄剣・鉄斧・鉄刀子・ヤリガンナなどである。

銅鏡は、縁の断面が三角形で、面径22.7センチ、重量1470gの白銅質銅鏡である。 この鏡は、中国の三国時代に魏の国で作られたといわれており、「張氏作竟」の銘があり、鏡の中央部に3体の神の坐像と5体の獣像を浮き彫りにした文様が施されている。銘文や神獣の数から、「張氏作三角縁三神五獣鏡」とよばれている。

三角縁神獣鏡は、4世紀を中心とする古墳に副葬され、同笵鏡(同型鏡)の分有関係によって、中央の豪族と地方の豪族とのつながりを知ることができる。

この三角縁神獣鏡の銘文を解読してみる。

画文帯神獣鏡

画文帯神獣鏡2面の裏面の写真

さぬき市歴史民俗資料館所蔵

同じく奥古墳群の、14号墳(竪穴式石室、径約18mの円墳=4世紀後半)では、 1号石室から直径12.9センチ、2号石室から14cmの画文帯神獣鏡が出土した。
いずれも乳が神獣文の一部として環状に表現された、環状乳神獣鏡で、三国〜西晋時代の中国製白銅質銅鏡と推定される。

1号石室の小さい銅鏡は、縁厚4.5ミリ、重量は304グラムである。全体に銹化が進み鏡背文様は不鮮明であるが、内区は12個の半円、方形帯が配置され、内区文様は、8個の環状乳を持つ4獣の背に4神仙が座乗する4神4獣型式である。

2号石室の大きい銅鏡は、縁厚5ミリ、重量は481gである。内区銘帯、内区文様とも1号の銅鏡とよく似ている。方形体の上面の4区画に、「吾作明意、幽凍三商」にはじまる銘文があるが、全体は解読できていない。

銅鏡は、勾玉・管玉・鉄剣など他の出土品と一緒にさぬき市歴史民俗資料館寒川に展示されている。

石井古墳4号墳(大井七ツ塚古墳)

石井古墳4号墳からの出土品の写真

さぬき市歴史民俗資料館所蔵

小山状の石井古墳4号墳の写真

石井地区の南端に、東西に長い標高30m〜40mの低い丘陵があり、この丘陵の尾根稜線が大川町との町境になっている。
石井古墳群は、この稜線上の6基と大川町側の1基を含めた7基の円墳で構成されている。町境にあるため、大井七ツ塚古墳とも呼ばれている。

4号墳は西から2番目にある。古墳群中最も大きく、墳丘の径22m、高さ2.9mの円墳で、南側すそには幅約2mの空濠を設けており、墳丘すそ近くには円筒埴輪をめぐらせていた。

昭和39年(1964)発掘調査され、その結果4基の竪穴式石室が発見された。副葬品は数多くの須恵器と碧玉製の管玉・水晶製切子玉・ガラス小玉など玉類、鉄刀・鉄鏃・鉄斧・鉄槍・ヤリガンナ・鉄鎌など鉄製品、金銅製馬具などが出土している。

出土した須恵器や馬具の特徴から、5世紀後半に築造され、6世紀初頭ごろまで追埋葬されている。
またこの古墳群は、7世紀に石井地区で建立された古代寺院との密接な関連が注目される。

神前古墳出土の家型埴輪

神前古墳出土の切妻型式家型埴輪の写真

さぬき市歴史民俗資料館所蔵

男山神社の東200mの所に、津田川に向かって南に張り出した尾根がある。神前古墳(寺尾古墳8号墳)は、この尾根突端に築造された径15m、高さ2mの円墳である。

墳頂部に広い平坦面があり、昭和35年(1960)ここに土俵場を作ろうとして、少し掘ると多数の埴輪が出土し、さらに下部から多くの鉄製品が出土した。
埋葬施設は、石材を用いない粘土槨か木棺直葬と想定され、出土遺物は甲冑・鉄刀・鉄斧・鉄鏃などの鉄製品と、円筒埴輪・家・盾・動物などの形象埴輪がある。

古墳の出土物としては珍しい家型埴輪は、2固体あり、いずれも切妻型式で、1固体は2階造り、他は平屋造り建物である。

神前古墳の所属する寺尾古墳群は、寒川町の北端ズバ山から津田川に向かう幾筋もの尾根上に、前方後円墳(5号墳)1基を含む約30基の古墳で構成されているが、全体的に見て古墳時代中期に属するものが多い。また、墳丘の盛り土すらもたない、箱式石棺や壺棺を埋葬施設とする小古墳の多いのが特徴の一つである。

白磁四耳壺 さぬき市指定考古資料

白磁四耳壺の写真

さぬき市歴史民俗資料館所蔵

この古めかしい壷は昭和32年頃大蓑彦神社の北側丘陵(現在切り通し、町道が通る)東斜面すそ近くで、明神池えん堤修築用の土を採集していた地元の秋友光雄さんが発掘したものである。

壷は宋時代(960〜1279)の中国で作られた青磁に似た白磁「青白磁」で、高さ26.8センチ、径17センチ、ほぼ完全な形で出土している。

壷の使用目的は分からないが、中国製の高価なものであり、日常生活に用いられたとは考えられない。他県の例では、平安時代から鎌倉時代にかけて、経典を納めた「経塚」に用いられたようである。

蓑神の周辺には石田城跡その他の遺跡があるので、そこの高位の人が経塚を造ったか、あるいは死亡のとき納骨したのではないかと考えられる。
なお、発掘場所が蓑神古墳群の範囲内にあるため、古墳の副葬品ではないかとの説もあるが、壷のみ単独で出土しており、古墳との直接関係はないと想定される。

加藤遺跡

加藤遺跡出土の銅鐸片と土器の写真

出土品は香川県埋蔵文化センター所蔵

加藤遺跡は石田高校の東約300mにある。香川用水建設工事と県道バイパス工事に伴って、昭和52年(1977)と53年に発掘調査が実施された。
この結果、現地表面下1.5m〜2mの堆積土に覆われた砂質土上に集落遺跡が確認された。

検出した遺構は、直径10m前後の大型住居跡8棟を始め小形住居跡6棟、掘立柱建物1棟、溝、埋葬土壙(どこう)などである。

また、出土した遺物は、ほとんどが弥生時代後期の土器・石器・鉄器・青銅器・植物種などであり、なかでも土器は多量に出土した。その他少量であるが、縄文時代後期・古墳時代初頭及び終末期に属する土器も検出された。(香川県埋蔵文化センター所蔵)

遺物の中で、注目されるものに、7点の銅鐸片がある。銅鐸は全国で440余発見されているが、破壊・埋納の時期を、土器との共伴関係から確認できる、たった5例のうちの1例という珍しいものである。

極楽寺墳丘墓第1号墳

移築された極楽寺墳丘墓第1号墳の写真

この墳丘墓は門入ダム堤下の「花の広場」に移転し復元されたものである。元のものは、現在門入浄水場となっている標高65mの丘陵頂上部尾根にあったが、建設工事のため平成9年(1997)隣接墳丘墓とともに発掘調査の後削平された。

1号墳は、墳丘墓群中最も規模が大きく、列石と呼ばれる石を張りめぐらせているのが特徴で、現存はしていないが、東側にも列石があったと推測されている。中央には4つの棺が造られており、石棺2基、木棺2基を埋蔵していた。弥生時代終わりから古墳時代始めにかけ作られたもので、被葬者は当時この地域を治めていた首長の一人であると考えられる。

副葬品は発見されなかったが、南北に隣接した墳丘墓の石棺や木棺群から、勾玉・管玉などの玉類と鉄製品が出土している。

中尾古墳

現在は消滅しています

中尾古墳

中尾古墳は相ノ山古墳群が立地する丘陵と狭い谷を挟んで東側の、大川町境にある丘陵尾根突端に築造されていたが、昭和57年(1982)土地改良総合整備事業により、発掘調査実施後削平された。

古墳は以前の開墾によって、かなり削平を受け、径5m程度の紛糾が残存しているに過ぎなかったが、調査により径20m以上の大規模円墳と想定された。

埋葬施設は両袖式横穴式石室を有し、全長10m以上、玄室長5.2m、幅2.4〜3m、高さ1.9m以上である。
石室には雨滝山山頂部と同質の斜方輝石安山岩の大石を用いた巨石墳である。

古墳時代後期(6世紀)に築造されているが、単独墳に近く、被葬者は当地方の頂点に立つ人物と想定される。
出土遺物は、須恵器(高坏・壷)、鉄製品(刀)・ガラス小玉に混じり、中世の土鍋や土釜なども出土し、後世での古墳の再利用が考えられる。

天王山古墳 さぬき市指定史跡

出土品はさぬき市歴史民俗資料館所蔵

天王山古墳の入り口写真
須恵器の写真

出土品はさぬき市歴史民俗資料館所蔵

天王山と将基山の連続した独立丘陵上に、総数で10基近くあったと伝えられる古墳群も、寒川町域で現存するのは2基のみである。

1号墳は、天王中学校グラウンド西端の丘陵頂上部にあり、標高50mのこの地点からの眺望は良好である。
墳丘の規模は径21m、高さ4mの円墳で、古墳群最大の規模をもっている。墳丘の南西斜面には、埋葬施設の一部とみられる石材が露出しているが、石材の状態からみて横穴式石室を埋地している可能性が強い。

出土遺物は、埋葬施設未調査のため不明であるが、墳丘すそには須恵器片が散布しており、この特徴から、6世紀中ごろに築造された後期古墳と推定される。

後期の古墳は、前期と異なり群集するのが特徴であるが、1号墳は単独墳の状態に近く、被葬者は、この地域一帯の農民達を統率した最有力者であろう。

なお2号墳は1号墳から西約200mにあり、径10m、高さ1mの小形円墳である。昭和38年発掘調査され須恵器類が出土しており、6世紀後半の築造とみられる。

蓑神塚古墳 さぬき市指定史跡

蓑神塚古墳写真

県立石田高校の南約1Kmに、御田神辺池と明神池に挟まれて北に延びる丘陵がある。この丘陵東側の山腹傾斜面のすそ近くに、約10基で構成されていたと伝えられる蓑神古墳群がある。
蓑神塚古墳は、このうち現存する3基の古墳の中で北端に位置し、最も規模が大きく、丘陵東側のすそを切り込んで横穴式石室を構築している。

墳丘は径約15m、高さ約3mに復元できるが、現在は盛り土が流失し、石室が露出している。
北端の奥壁及び蓋石の一部が崩落して、玄室奥壁側から羨道が見通せるようになっている。石室の主軸は南北方向で、南方向に羨道が開口している。この石室は全長約9m、玄室幅1.65m、高さ1.7m、羨道幅1.25m、高さ1.4mで、前後に連続して二つの玄室を有する特異なものである。

出土遺物は存在しないが、石室の形態から6世紀後半から末期にかけての築造であろう。