神祭りの起源
我が国民の神に対する観念は独特のもので、西洋人のいうゴッドでもなければ仏教でいう仏とも異なる。その現象面としてあらわれたのが祖先崇拝であり、自然崇拝である。
祖先崇拝とは古事記・日本書紀等の古典にみえる氏族の祖神、または祖神と信ぜられている神を奉祀し、これを仰ぎ氏神とすることで、そのような神社は各地に点在しており、式内社にもそのように言い伝えているものがある。
しかし氏神といっても、祖神と氏族との関係が明らかでなく、その地の開拓神を特定な氏族でなく、地縁的な関係で祭っているものが多い。
自然崇拝は、自然物や自然現象、はては生活必需物など、すべての物に神霊があり、その神霊は善神ばかりでなく、悪しきもの、奇しきものも優れて畏るべきものも神とされた。
神は個人としても祭られたが、主として氏族集団、地縁的集団として祭られた。したがって式内社などの古い神社が所在するということは、その背後に有力な集団があったということを物語るものである。
神を祭るには樹木を立てめぐらした神籬(ひもろぎ)、岩石等をめぐらした磐堺(いわさか)などが多く山上に設けられ、榊に鏡・玉・剣などをつるして斎場とした。
神祭りが終わると片付けられたが、繰り返し行われるようになるとおのずと斎場も一定して、いわゆる神社らしきものができるようになる。
ささやかな本殿だけから後、鳥居や拝殿などいちおう神社としての形態が整ったのは奈良時代になってからと言われている。
そして自然神も祖神同様人格神となり、神話時代の神々に結び付けられるようになった。
式内社
式内社というのは、延喜5年(905)から延長5年(927)にわたって編集された「延喜式」のうちの「神名帳」に記された神社のことで、式社とも官社ともいう。
古代の神社はその氏子、すなわち氏族によって祭られ、社殿の造営や、祭器、神籬などが奉られたりしたが、のち祭祀権が朝廷に移り、これらのことを朝廷が各氏族に命じて行わせるようになった。
とくに大化改新後は、従来の勢力者であった国造にかわって新しく国司から幣帛(へいはく)を奉るようにもなり、延喜式ができるまでにあったこれらの神社が式内社となった。これらの式内社の多くはすでに奈良時代には創祀されていたという。
この式社には官弊社(畿内に多い)と国弊社(地方に多い)があり、毎年の祈年祭に官弊社は神祇官が、国弊社は国司が幣帛を奉るもので、ともに大社・小社があった。
讃岐の式内社は24社あり、全部国弊社で、うち大社3(田村神社・城山神社・栗井神社)であと21社は小社であった。
旧大川郡の式内社は水主神社(東かがわ市)・大蓑彦神社(さぬき市寒川町石田)・布勢神社(さぬき市寒川町石田)神前神社(さぬき市寒川町神前)・志太張神社(さぬき市志度町鴨部)・多和神社(さぬき市)の6社である。
式外社
式内社は、延喜式がまとめられた10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社であり、その選定には政治色が強く反映されている。
当時すでに存在したはずであるのに延喜式神名帳に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。
式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持っていた神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺であると認識されていた神社、僧侶が管理をしていた神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿を有していなかった神社などが含まれる。
式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ。
神仏習合と別当寺
日本に仏教がはいった当時は古来からの神中心の信仰と衝突したが、結局、進歩派の勝利となって仏教は取り入れられた。
奈良時代になって仏教をより広めるため、我が国固有の神信仰と調和しようとして神仏の関係はしだいに密接になっていった。
すなわち、神が仏法を擁護するとか、神は仏に近づくことを喜ぶという神仏習合の考え方である。
初めは神仏を対等の地位でみていたが、やがて仏教を優位にみ、神も衆生と同じで仏に帰依するものだという考え方になり、神の救いのために神前読経が営まれたり、神社域内に神宮寺とか別当寺とかいう寺が建てられ、また、寺域内には地主神を祭り鎮守神とする風潮が現れるようになった。
平安時代になると神に仏名である菩薩号をつけるようになり、八幡大菩薩などと唱えたりした。
つまり、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする本地垂迹説(ほんじすいじゃく)が唱えられ、神に権現をつけたり、天照大神の本地は大日如来であるとか八幡神の本地は阿弥陀如来であるとかいわれるようになり、八幡神その他の諸神にも相ついで別当寺が建てられるようになった。
その後鎌倉時代になり元寇によって神威が高まり、南北朝以後、神を優位にみる思想が現れるようになった。しかし神仏を一体とみなす考え方は明治維新前まで及んだ。
八幡神
八幡神は、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神として崇敬を集めた。
誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩とも呼ばれた。
また応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。
八幡神社の祭神は応神天皇だが、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇をともに祀っている神社も多い。
明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。
しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。
八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。
八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされる。