さぬき市津田・寒川臨地研修会に参加して

Last Update 2011/06/02

平成19年3月25日出版の さぬき市の文化財 No 4 に掲載 筆者 寒川支部 山下 恵

「さぬき市津田・寒川臨地研修会」に参加して

9月13日、小雨のなか、志度支部13名、寒川支部13名、津田支部11名、大川支部15名、長尾支部24名の熱心な会員総勢76名が2台のバスに分乗して出発した。

鵜の部山古墳

うのべ山古墳現地説明会
うのべ山古墳

うのべ山古墳

最初の研修地は、鵜の部山古墳。大川広域行政の松田氏の説明を聞く。
津田地区の古墳の特徴は、古墳時代前期で前方後円墳が多い。
鵜の部山古墳は出土品から3世紀後半の築造と推定される。またこの古墳は積石塚と呼ばれる香川独特の形式である。
古墳の大きさは、全長約37mで後円部の径約17m、高さ約3m、前方部の長さ約17m、高さ約0.5mである。
津田湾沿岸部の古墳群は周辺の大川町や神前、長尾に比べて特徴的である。
一つには讃岐の多くの古墳が遺体を葬る空間を東西方向に向けて東枕、西枕にするのに対して、南北に向けている点である。南北方向に埋葬施設を作る代表的な地域に大和・河内などの畿内があることから、津田湾沿岸の古墳群の性格を畿内勢力の地方進出の窓口とみる意見がある。
もう一つの特徴は古墳時代前期の古墳が多く、中期以降になるとほとんど見られなくなる。そしてその時期、津田町から山を隔てた南側に四国最大の古墳、富田茶臼山古墳が造られる
富田茶臼山古墳は政治的な統合を象徴する古墳と評価されているが、興味深いのはこの富田茶臼山古墳も畿内との共通性が指摘されていることだ。つまり歴史的な流れからは、津田湾沿岸の畿内色のある前期の古墳が中期にいたり内陸の四国最大の前方後円墳富田茶臼山古墳へと発展していく様子が見られるのである。

津田郷土館

次の研修地は津田の郷土館。ここには鵜の部山古墳や岩崎山4号墳などから出土した品々や郷土にまつわる品々が展示されていた。中が狭いため一度に入れず説明を聞けなかったのが残念であった。さぬき市として市の郷土館の早急の建設が望まれる。

岩崎山4号墳

岩崎山4号墳

岩崎山4号墳

3番目の研修地は岩崎山4号墳。ここも松田氏から次のような説明があった。
岩崎山4号墳は津田川に向かって突き出た尾根に造られている。現在、海に流れ込む河口は、古墳よりも北にあるが古墳時代には今よりも海が入り込んでいたと考えられる。 そうすると古墳付近が当時の河口であった可能性があり、船に乗ってやってきた人々が必ず目にしたのがこの古墳であったと推測される。
このような交通の重要な地点に岩崎山4号墳は造られたと考えられる。
この古墳は4世紀後半に造られた前方後円墳という鍵穴の形をした古墳である。 津田川方面に前方部、その西側に後円部が造られている。
大きさは全長約58m、後円部の直径約31m、高さ約5m前方部の長さ約27mである。
香川県の前方後円墳の多くは前方部がしゃもじのような形をしており、端に向かって曲線的に広がるが、この古墳は後円部の付け根から先端までほぼ同じ幅で柄鏡のような形をしている。このような形は香川の古墳ではあまり見られない特徴である。
前日からの雨で足元が悪かったが、津田支部の会員の方々が通り道の整備をして下さり大変助かった。

男山神社

男山神社

男山神社

4番目の研修地は男山神社である。ここでは寒川支部長の山本先生にお願いした。
この神社は醍醐天皇の命令を伝える公文書を受けた宝蔵院住職の明海法印が、延喜7年(907)4月、京都男山山頂に祀られている石清水八幡宮の分霊を迎えて建てられたもので「神前八幡宮」と呼ばれていた。
この神社は寛永2年(1625)に再興されたものである。明治になって「男山神社」と改称され、昭和には社殿が改築されて現在に至っている。
神社の由来のほか、狛犬、随身門、八脚門、絵馬殿など見識の深い細かな説明があった。 幸いこの見学地では雨もあがり、参加者は境内でつぶさな観察をすることができた。

春日温泉

この後、春日温泉で昼食をとり、休息時間に参加者同士の歓談がはずみ親交を深めることができた。

奥3号古墳

午後の最初の研修地は奥3号古墳である。説明者は寒川の副支部長、佐藤初男氏である。
この古墳は、雨滝山遺跡群の中の古墳時代前期の前方後円墳であった。
昭和47年、ゴルフ場建設に伴う発掘調査が実施され、三角縁神獣鏡が出土した。雨滝山遺跡群は、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての墳墓群を中心に形成された古墳群であり、香川県の古墳文化を考える上で非常に重要な古墳群である。
また、神獣鏡の出土で奥3号墳の重要性が認識され、保存対策が協議された。 その結果三角縁神獣鏡が出土した竪穴式石室のみを移転復元し、現在に至っている。
この古墳は前方後円墳で、標高120mの尾根頂部、現在のゴルフ場クラブハウス付近にあった。全長37m、後円部の直径22m、短径17mの楕円形を呈し、高さ3mであった。前方部は長さ15m、幅はくびれ部で約8m、端部で10mと広く開き「バチ」形に近い形であった。
出土品等の説明もして下さったが、雨足が強くなり、参加者の研修意欲を妨げた。

大井七ツ塚古墳

次の研修地は、大井七ツ塚古墳群である。説明は同じく佐藤初男氏であった。
大井七ツ塚古墳群は、雨滝山塊にある古墳群は弥生時代後期から古墳時代後期に至るまでほぼ継続して営まれ、香川県の古墳文化研究上重要な位置を占める遺跡群である。
ここでは、いよいよ本降りとなり早々と引き上げた。

石井廃寺

石井廃寺の塔心礎石

石井廃寺の塔心礎石

本日最後の研修は「石井廃寺」跡である。あいにくの雨のため、石井自治会館を借りて寒川支部の佐藤初男氏の説明を聞いた。
石井廃寺は石井集落のほぼ中央、現在のこの会館や広場にあったと考えられている。 それは、塔心礎石が残っていることやこの付近から古瓦がたくさん出土しているからである。しかし、建物の配置や規模は不明である。寺の名も伝わっていないので字名をとって石井廃寺と呼ばれている。
出土した瓦には、白鳳時代に見られる4重孤文の軒平瓦、奈良時代の特徴を持った複弁蓮花文の軒丸瓦、扁行唐草文の軒平瓦、平安期末と思われる均正唐草文軒平瓦や蓮花文鴟尾などがあり、7世紀後半の奈良時代前期に創建されたものと思われる。
創健者は、集落内に点在する多くの古墳群と関係の深い豪族凡直一族と考えられる。
この廃寺は県下でも最古の寺院の一つであり、大和との関連が注目されている。
その外、塔心礎石や土台石さざれ石造りの荒神、寺屋敷と瓦を焼いた窯跡、オイズミ(御泉)などの説明があり、参加者はロマンに満ちた話に聞き入っていた。

さいごに

この研修に参加し、文化財の重要性と保護活動の必要性を再認識するとともに自身の不勉強を認識させられた。丁寧に説明をしてくださっていたのに、十分な報告ができていませんことをお詫びいたします。
最後になりましたが、真剣に説明してくださった方々に衷心よりお礼申しあげます。