古代の寺 石井廃寺跡について

Last Update 2017/4/14

平成18年3月25日出版の さぬき市の文化財 No 8 に掲載 筆者 寒川支部 佐藤初男

1、位置

三重塔の建立跡(石井自治会館)

三重塔の建立跡(石井自治会館)

石井廃寺跡はさぬき市春日温泉より西へ200mの市道石井2号線沿いにあり、現在石井自治会館・広場や社があるところに位置する。

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2、創建時期と創建者

石井廃寺は礎石や出土瓦などから7世紀後半(白鳳時代)西暦645~697年の65年間[今より1300年前]に創建されたものと思われる。

創建者は物部氏に関係する者がこの地に建立したと言う説もあるが、集落内に点在する弥生時代末期から古墳時代末期に築造されている多くの古墳群と深い関係がある豪族の大凡直(オオシノアタイ)一族が建立したものと推測される。

この廃寺は県下でも最古の寺院の一つである。優美な古瓦が多く出土されており、屋根瓦は中央から来た瓦職人が製作指導したものと言われてきたが、赤瓦であることから朝鮮半島等からの渡来人か、或いは琉球人によって窯焼きされたものではなかろうかと思われる。

3、廃寺跡の範囲

廃寺跡の範囲については、諸説があるがいずれもはっきりした裏付けがなく、総じて創造の域にとどまっており、古来より寺の屋敷は凡そ1町歩と言われてきたが、実際にはこれより狭い範囲のように思われるので、茲に同じく私見を述べさせて頂き、諸賢のご高説を仰ぎたい。

範囲設定に当たり、この寺が建立された頃は本地垂じゃくの思想により神仏混淆の時代であり、三重塔をほぼ中央に配し、東西南北四隅には魔除けのための神々が祀られていた。

この祠が現在3箇所確認されている。(添付石井廃寺跡図面参照

先ず塔が建っていた場所は寒川町神前212番地1辺りである。
寺屋敷跡として考えられるのは上記地番以外に、211-1,210-1,210-4,210-6、210-8、205-1、205-2、208-1の北半分、219の西一部、233-2、234、235、236、240の東一部、市道石井2号線の一部及び3号線の大部分が範囲内と思われる。

4、廃寺跡を囲む神々を祀る祠

塔を中心に南東の隅には水神が祀られ、ここは御泉(オイズミ)という古井戸がある。

南西の隅205-1には荒神が祀られていた。この荒神は何時の時代にか210-6の現在地に移されている。東北の隅233-2には樫の大木の下に権現神社が祭られている。北西の隅240の藪の中にも祠がある。

5、塔心礎石と柱の土台・さざれ石造りの荒神

石井廃寺礎石

石井廃寺礎石

石井廃寺跡に見られる塔心礎石は210番地ー6に置かれている。

石質は花崗岩の自然石でキメの荒い俗名ムギ石と呼ばれる脆い石である。(このような脆い石はかえって加工が難しい)この石は雨瀧山系で同質の石が採掘されていた。

礎石は南北に長く、東側面は長さ193cm、西側面は175cm、南側面は90cm、北側面は115cm。地上高は東側面55cm、西側面52cmである。

そのほぼ中央部に深さ13cm、直径68cmの円形の穴が掘られている。
礎石の東側より眺めれば大きな石はむき出しになり、その下に小さな石を幾つにも重ねている。その他の3方面は土の中にある。

またこの礎石は4ツに割れたものを合わせている。この大きな石は山から運び出すときに2ツに割れたものを礎石として使用する際に合わせて使われた可能性が高い。次に塔崩落後塔心礎の移設の折に4ツに割れたものと思われる。

なお塔心礎の穴の大きさから見てここに建立されていた塔は三重塔であると思われる。

塔心礎の北側には回廊の台石らしきもの1個が置かれている。石質は火山で産する石と同質のものである。塔心礎として使われている石とは対照的に石質は緻密で固い。これは219番地の畑に置かれていたものでここに住居があった頃手水鉢の台にしていたものを石井廃寺の台石と知り寄贈されたものである。

さざれ石造りの荒神

塔心礎の上のさざれ石造りの荒神様の写真

この塔心礎の上には「さざれ石で造られた御堂の荒神」が祀られている。
この神は205-1の南西の隅に祀られていた荒神ではなかろうか。さざれ石はこの地方では産しないため、遠くから取り寄せたものと思われる。

この塔心礎は塔の中心柱が建っていた下にあり、建立当時は現在地より北西の位置にあったものが、寺が戦火に合い、その後焼け跡を里人達の手により整備をし、石井庵を建立した。その際、後の代の人達が見て3重塔がこの地にあったことが判るようにと、人目に付きやすいこの場所を選んで移設したのではなかろうか。
不思議なことに塔心礎の上に、何故さざれ石造りの荒神を祀ったのか。もしかすれば移動された塔心礎の下には石井廃寺を解き明かす貴重な品物が埋蔵されているかも知れない。後世の盗掘を恐れてここに荒神を置いた可能性もある。
塔心礎のある場所のすぐ東側下には道(市道石井3号線)が通じており、この道は時代と共に拡幅されながら順次掘り下げられていき、今塔心礎は崖の上になっている。

6、寺屋敷と御泉・瓦が焼かれた窯跡

石井廃寺の塔心礎石が置かれている直ぐ南下あたり迄を昔から寺屋敷と呼ばれていた。

この直ぐ近くに御泉(オイズミ)と呼ばれる古井戸がある。
この御泉は、どんな日照りの年でも涸れることなく滾々(こんこん)と湧き出ている。

この泉は何時の時代に掘られたかは不明である。
寺を建立すれば多くの人々が来る。水の使用量も多くなるため、水量豊富なこの地を選んだものと思われる。

初めは湧き水程度であったものを、順次掘り下げていき、立派な自然石組みの井戸としたのである。この石組みは明治以降改修していないようである。

石井に住む多くの住民は永い間オイズミの水を利用して生活していた。 明治以降には、各家庭に井戸が掘られるようになり、オイズミの使用人員や使用量は減少してきたが、最近まで生活用水や早魃時に水田の灌漑水として使われてきた。
また、石井に名称の謂れもこの石組みの井戸から付けられたものであると先人より言い伝えられている。

時移りて昭和53年度から始まった石井地区団体営圃場整備事業により、55年にこの井戸に蓋をして、その上に道を造り、市道石井3号線と4号線が交差したところとなった。今も道路脇の排水路には井戸から溢れた水が流れ出ている。

かってご報告頂いている石井廃寺の資料中、このオイズミとの関係が書かれたものは見当たらない。

また、208番地ー1辺りで瓦を焼いた窯跡があったとの言い伝えもある。

7、南大門、金堂、僧房

これらの建築物があったか、無かったかは定かでない。あったことにして仮設を立ててみたい。

南大門は三重塔の南に位置し、210番地ー1辺りに建てられていた。当時は茅葺屋根の丸柱の建物であったに違いない。

金堂は三重塔より一段高い位置の234番地辺りに建立されていたらしい。屋根は桧皮葺の立派な建築物であったものと思われる。

僧房は、三重塔の西側の205番地ー1辺りに建てられていたのではなかろうか。

これらの建物の間には庭木や四季折々の草花が植栽され参拝者の心を和ませてくれたものと思われる。 また、三重塔跡と金堂跡との間の距離(空間)がやや長いのをどう埋めるかが、一つの問題点である。

8、最後に

草深い石井の里人の家々は茅(藁)葺き屋根の粗末なものが多かったに違いないが、異国風の赤瓦葺屋根の三重塔は、周囲から見渡せる場所であり、しかも遠くからの眺めも良く、その景観は荘厳で偉容を呈していたものと思われる。
もし、今の世に同じ構えの塔があっても人々は素晴らしいと感動するに違いない。

戦乱の代にこの寺は武家階級の騒乱に巻き込まれて焼き討ちされ、総てが消失してしまったのである。
ただ残ったものは塔の屋根瓦と礎石のみで、今も付近の土を掘り返せば赤みを帯びた素焼きの屋根瓦の破片が出土している。

今までの発掘調査等では、三重塔にまつわる報告のみであるが、石井廃寺には三重塔のみとは考え難い、少なくとも南大門、金堂、僧房はあったのではなかろうかと思われるので、後世の方々の更なるご研究に委ねたい。
なお、本書執筆にあたり終始温かいご教導を賜りました長尾西ご在住の亀井芳文先生には、深尽なる感謝と厚く御礼を申し上げます。