さぬき市歴史民俗資料館全景

昔の生活道具(むかしのせいかつどうぐ)

さぬき市歴史民俗資料館 Last Update 2016.10.01

食事・ごはんをたく・たべる

50年前に発明(はつめい)された電気炊飯器(でんきすいはんき)の普及と、水道(すいどう)の普及(ふきゅう)とで昔、台所(だいどころ)と言っていたご飯(ごはん)をつくる所は、キチンと云われるようになりました。

50年前には、朝早く(あさはやく)から起きて、お米(おこめ)を井戸水(いどみず)でとぎ、かまどに木切れ(きぎれ)で火(ひ)をおこし、ごはんを炊(た)いていました。

「かまど」と「火吹き竹」

「かまど」と火吹き竹(ひふきだけ)

おきかまど

「おきかまど」と「飯(めし)がま」

竈(かまど)(おくどさん)は、5世紀の半ば(約1500年前)朝鮮半島(今の韓国)から登り窯(のぼりがま)、置き竈(おきかまど)とともに伝(つた)わってきました。
これにより須恵器(すえき)(ちゃわんやかわらなど)の生産(せいさん)もはじまりました。
竈(かまど)の傍(そば)には必ず火吹竹(ひふきだけ)がみられます。
置き竈は移動(いどう)でき、後に火鉢(ひばち)が生まれました。

飯がまと茶釜

飯釜と茶釜(めしがまとちゃがま)

羽釜(はがま)はUFOのように、鍔(つば)のある飯釜(めしがま)と茶釜(ちゃがま)の総称です。

7~10世紀の遺跡から羽釜の鋳型の出土が確認されています。

箱膳

箱膳(はこぜん)

箱膳(はこぜん)は、江戸時代(えどじだい)に商家(しょうか)の使用人(しようにん)などが用いた(もちいた)のが始まりと思われます。
江戸から明治(めいじ)にかけて普通(ふつう)に用いられていた食卓(しょくたく)は箱膳でありました。
銘々膳(めいめいぜん)ともいわれ、箱膳は、箸(はし)や茶碗(ちゃわん)と同様(どうよう)に、一人一人が持っていました
上蓋(うわぶた)を裏返し(うらがえし)て箱(はこ)の上(うえ)に置き(おき)、中(なか)から取り出し(とりだし)た椀・皿(わん・さら)をその上に載せ(のせ)て食べ物(たべもの)を盛(も)ります。
食事(しょくじ)のたびに椀・皿を洗う(あらう)習慣(しゅうかん)はなく、月(つき)に数回(すうかい)洗うのみでした。
日本(にほん)に軍隊(ぐんたい)が生まれ、兵役(へいえき)を終えた人(おえたひと)たちが家(いえ)に帰って、毎回洗う(まいかいあらう)ので、この習慣が広(ひろ)まったと思えます。

お櫃と飯櫃入れ

お櫃と飯櫃入れ
おひつとめしびついれ

飯篭(イカキとも言われる)

飯篭(めしかご)(イカキとも言われる)

食べ残した飯(ごはん)は、冬(ふゆ)の寒い時期(さむいじき)には、稲藁(いなわら)でつくった飯櫃入れ(めしびついれ)にお櫃(おひつ)ごといれて保温(ほおん)します。
夏(なつ)は炊いた飯(たいためし)が腐(くさ)りやすいため、お櫃を使わず、竹製(たけせい)の飯籠(めしかご)に入れて、井戸(いど)の上や軒下(のきした)など涼(すず)しい所に吊(つ)るしていました。

碾き臼

碾き臼(ひきうす)

もち臼

もち臼(うす)

手回し(てまわし)の石臼(いしうす)は碾き臼(ひきうす)と言い、豆(まめ)などの自家製粉(じかせいふん)にもちいます。
きね)を用いて味噌(みそ)をすったり餅(もち)をつく臼(うす)にはで出来たものとで出来たものとがあります。

土臼

土臼(どうす)

精米用(せいまいよう)には土磨臼(つちすりうす)が使われます。土臼(どうす)は竹網(たけあみ)の胴(どう)に(つち)を詰(つ)めて固(かた)め、カシの歯(は)が埋(う)め込(こ)んであります。

外(そと)にでる

草履と草鞋

草履と草鞋(ぞうりわらじ

奈良時代(ならじだい)に草(くさ)を編(あ)んで作(つく)る沓(くつ)が大陸(たいりく)より伝(つた)わりました。
この頃、稲作(いなさく)で生(しょう)じた藁(わら)を生活用具(せいかつようぐ)の材料(ざいりょう)として使用(しよう)することが一般的(いっぱんてき)になった事から、草として藁が沓にも使われ、「草鞋」と書きワラグツと呼ばれるようになりました。
室町時代(むろまちじだい)にはワラジと呼ばれるようになりました。
ワラジには沓紐(くつひも)がありますね。

女性用蓑

女性用蓑(じょせいようみの)

棕櫚製蓑

棕櫚製蓑(しゅろせいみの)

蓑笠

蓑笠(みのかさ)(たからばち)

昔の雨合羽(あまがっぱ)です。蓑(みの)と笠(かさ)は通常一体(つうじょういったい)となって使われます。
蓑笠(みのかさ)はさぬきでは「たからばち」といわれていました。

印籠

印籠(いんろう

もともとは中国渡来(ちゅうごくとらい)の朱肉(しゅにく)入れでしたが、江戸時代には薬入れ(くすりいれ)となりました。
...水戸黄門様(みとこうもんさま)の「これが目(め)にはいらぬか」...

暖(あたた)まる

を燃やすことは奈良時代から行われていました。
平安時代には、清少納言の枕草子に、火鉢(ひばち)の前身にあたる円形の火桶と方形の炭櫃(すびつ)に関する記述が見られます。武家の暖房器具としてはじまり、公家も利用するようになりました。

火鉢(ひばち)

角火鉢

角火鉢(かくひばち)

長火鉢

長火鉢(ながひばち)

宣徳火鉢

宣徳火鉢(せんとくひばち)

五徳と火箸

五徳(ごとく)と火箸(ひばし)

手炉

手炉(てあぶりひばち)

一般的に普及したのは、が登場した鎌倉時代~江戸時代の間と言われています。
江戸時代から明治時代にかけて、庶民にも普及し、一部はインテリアとして発達し、彫金を施された金属製の火鉢や、鮮やかな彩色をされた陶器製の火鉢が作られました。
宣徳火鉢は中国の明の時代(1426~1435)の銅器にちなんでつくられた火鉢です。 明治時代になると、炭焼きの技術が普及した為に火鉢はますます使用される様になります。しかし、昭和37年頃になって石油ストーブの登場した事によって火鉢は姿を消したのでした。

行火(あんか・こたつ)

番屋炬燵

番屋炬燵(ばんやこたつ)

櫓炬燵

櫓炬燵(やぐらこたつ)

安全炬燵

安全炬燵(あんぜんこたつ)
船炬燵・回転こたつ

行火

行火(あんか)

櫓炬燵は室町時代に囲炉裏(いろり)の上に櫓(やぐら)を組み、布団(ふとん)をかけた物が最初です。

囲炉裏を床より下げ、床と同じ高さと、布団を置く上段との二段の櫓(やぐら)を組んだ足を入れられる掘り炬燵となりました。
更に囲炉裏の周囲まで床より下げ、腰掛け炬燵(こしかけこたつ)ができました。
1909年(明治42年)東京・上野にイギリス人陶芸家バーナード・リーチが正座が苦手なために自宅に作った掘炬燵が、住宅向け腰掛炬燵の最初です。

行火(あんか)は一人用で、持ち動かせる暖房器具の一つです。布団(ふとん)などに入れ直接手足に当てて暖をとります。地域(ちいき)や世代によっては「こたつ」と呼ばれることもあります。
熱源(ねつげん)としては、古くは木炭、炭団、豆炭が用いられました。
瓦土製(かわら)の置炬燵(おきこたつ)や置炬燵を格子(こうし)の木枠で囲む櫓炬燵(やぐらこたつ)に続いて、安全炬燵(あんぜんこたつ)が開発されました。就寝に際して、睡眠中に足で蹴って、櫓(やぐら)が回転(かいてん)しても、常に水平(すいへい)を保つ金属製の火入なので安全なのです。

懐炉(かいろ)

懐炉

行火を更に小型化したものが携帯用の暖房器具である懐炉です。
古い時代には、火鉢等で加熱した滑石等(なめいしなど)を適度に冷ますか、布に包んで温度を調整して使用していました。
これを温石(おんじゃく)といいます。
また塩のみまたは塩と糠(ぬか)を混ぜたものを炒って布に包んだもの(塩温石)も同様に使用されていました。江戸時代くらいまでは一般的だったようです。

江戸時代の元禄期初期には、木炭末に保温力の強いナスの茎などの灰を混ぜたもの(懐炉灰)を通気孔の開いた金属容器に密閉して燃焼させるカイロがあったことが知られています。
この木炭末に混ぜる灰としては他に桐の灰が使われました。
大正末期、的場仁市がイギリスのプラチナ触媒式ライターを参考に、
プラチナの触媒作用を利用して気化したベンジンをゆっくりと酸化発熱させる懐炉を発明し、
ハクキンカイロ」の商品名で発売しました。
ベンジンが稀少であった戦前・戦中は、郵便局や軍隊などが利用の中心だったようですが、戦後はハクキンカイロ社以外の製品も登場し、一般にも広く普及しました。

湯たんぽ

湯たんぽ

日本には室町時代に入ったとされ、古くは陶器製(とうきせい)が主で、金属製(きんぞくせい)のものが現れたのは大正期以降(たいしょうきいこう)です。
戦時中は金属が貴重となったため、また,陶器製のものが使われるようになりました。
陶器製の湯たんぽは保温性が良く遠赤効果(えんせきこうか)があるといわれます。

照明(あかり)をつける

行灯(あんどん)・提灯(ちょうちん)

行灯

行灯

行灯は木や竹、金属製などの枠に紙を貼り、中に油皿(ゆざら)を入れて火をともす照明器具です。
字のごとく、元々は手にさげて持ち歩いていました。室町時代頃より使われました。
江戸時代に入ると移動に便利な提灯が出現しました。
これがために、次第に、定置式のものに変化し、屋内用灯火具として普及していきました 。

提灯

提灯

提灯は火袋(ひぶくろ)の中に蝋燭(ろうそく)を仕込んだ携行用の灯火具です。室町時代中期、蝋燭(ろうそく)の普及にともなって広まったが、安土桃山時代には、日本独特の伸縮自在の折りたたみ式の提灯が誕生しました。

ランプ

ランプ

容器の中の灯油に浸した木綿糸の紐を通して、油は毛細管現象で吸い上げられ、口金のところで点灯されます。
石油ランプは江戸末期に伝来し、明治時代には国産ランプが出回り、明治20年頃には全国に普及しました。
明治30年頃からはガス灯や電灯の設置により次第に使われなくなりました。

吊りランプ

吊りランプ

洗濯(せんたく)する

洗濯板

洗濯板(せんたくいた)

洗濯物は大きな「たらい」と「洗濯板(せんたくいた)」を使って1つ1つ手で洗っていました。
「たらい」は木やブリキという金属で出来た大きな洗面器みたいなものです。
洗濯板は表面にでこぼこやぎざぎざをつけた木の板。それに洗濯物をこすりつけてきれいにしていました。
中国がルーツである洗濯板は、欧米経由で明治時代になってから、日本に伝わりました。

アイロンをかける

衣類のシワを伸ばすアイロンの歴史は古く、紀元前2000年からあったらしい。
火熨斗

火熨斗(ひのし)

日本では平安時代に丸い器に炭火を入れてこの熱と容器の重みで布のシワをのばす火(ひ)のしが中国から伝わりました。
江戸時代になると同じく炭火利用の焼きごてが登場しました。

鏝

鏝(こて)

炭火アイロン

炭火アイロン

明治になると、イギリスより炭火アイロンが入ってきて広く普及しました。
日本では火鉢(ひばち)など炭火を使う暖房が一般的であり、また消し炭(けしずみ)として家庭で簡単に炭を作る事が広まっていたので、それをそのままアイロンに転用できたので都合が良かったのです。
電気アイロンは1914年に輸入されたが1927年には自動車の大量生産方式にヒントを得たNationalが手頃な価格で生産し大ヒットしました。

秤(はかり)

皿付竿秤

皿付竿秤(さらつきさおばかり)

天秤(てんびんばかり)とは、てこの原理を利用して、質量を量りたい物体と、錘とをつりあわせることによって、物体の質量を測定する器具です。
一定の重さの錘を用いて、支点からの距離を変えることによって測定するものを竿ばかりと呼び、
上皿天秤のように、計りたい物体とおなじ重さの錘を用いるものを狭義では天秤ばかりと呼んでいます。

台座付天秤ばかり

台座付天秤ばかり
(だいざつきてんびんばかり)

後藤分銅

後藤分銅(ごとうふんどう)

江戸時代の銀貨は、丁銀および豆板銀すなわち秤量銀貨でした。両替商において天秤で量目(質量)を測定してから通用価値が定められました。
この時用いられた分銅は青銅製で不正を防止する観点から彫金を本職とする、後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は禁止されました。
そのため寛文5年(1665年)の度量衡統一以来幕末まで200年以上に亘って尺貫法の質量の単位である「両」および「匁」は均質性が保たれていました。
この分銅の形は蚕の繭をかたどったものといわれており、江戸時代初期に生糸貿易が盛んであり、生糸は貴重品とされたためといわれています。
また両替商の看板も分銅を意匠とした物で銀行の地図記号として今日に伝えられています。

水鉄砲(みずてっぽう)と消防(しょうぼう)

竜吐水

木製と銅製の竜吐水

雲龍水(竜吐水)

雲龍水・(竜吐水)
(うんりゅうすい)(りゅうどすい)
明治20年

消防大八車

消防大八車
(しょうぼうだいはちぐるま)

水鉄砲の起源は、江戸時代の防火用具である竜吐水(りゅうどすい)(小型の木製手突きポンプ)などであって、これを模して玩具にしたと考えられます。

明和元年(1764)には江戸町火消しにはじめて官給され、短期間に全国に広まりました。明治時代になると外国製の人力ポンプが普及し、一線を退いたが、地方ではかなり後まで使われました。小型の木製手突きポンプも竜吐水とよばれていました。

車(くるま)

猫車(ねこぐるま)

猫車

建設現場、農作業などでよく見かける運搬用の一輪車で、江戸時代に「ねこ」と呼ばれた木製の配達用の手押し車があり、猫車(ねこぐるま)という呼び名も当時からのものです。

大八車(だいはちぐるま)

大八車・中車

大八車とは、江戸時代から昭和時代初期にかけての日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車です。代八車とも書きます。

なお、同様の構造の荷車(牛車)は少なくとも平安時代から使用され続けていますが、一般的には江戸時代からといわれています。 明治時代以降には、二輪の大八車の前部に旋回可能な前車を取り付けて四輪とした構造の荷馬車が製作されるようになり、自動車が普及するようになるまで日本各地で使用されました。

大六車・小車

大六車・小車
(だいろくぐるま・しょうしゃ)

小車の鑑札

小車の鑑札
(しょうしゃのかんさつ)

ちなみに、リヤカーは大八車を発展させたものであり、道路交通法上は同じ軽車両に分類されています(現在でも、道路標識において、「自転車以外の軽車両」をあらわす図案として、大八車の姿を見ることができます。 第六車の車税は、大八車の半額であったから半車といって、おもに農家が使用していました。写真の、半車の富田村鑑札は昭和20年頃のものです。