踏み車

さぬき市歴史民俗資料館ガイド
 さぬきの溜池と暮らし編

Last Update 2017.06.24

水利慣行

年間降雨量わずか1150mmの讃岐は、古来日照り干害に苦しめられ藩政時代には飢きんで餓死者がでたこともあった。
干ばつ時には水1升米1升といって水争いが生じがちなため、人々の知恵で非常の時に限らずつねに行うようになったのが水利慣行である。
水利の慣行は藩政時代からおおよそは決まっており、新田の開発、新池の築造、水車の設置、特別に干害を受ける地域、その他の事情が生じた場合、
関係者相互で取り決めして、またそれを慣行とし、
明治以後も法律と同じ効力をもって引き継がれたものである。
ただし、社会情勢その他の関係でいくぶん変化のあったことはもちろんである。 事例には次のようなものがある。

水割り台帳によるもの

ふつう「水ブニ」といい、水田1枚1枚にどれだけの水を貰う権利があるかを定めた台帳による。

分木(ぶんぎ)によるもの

現在の分木

現在の分木

谷川等の水流を配分する場合、分木で水位により配分し、または分木で多方に分け配分する。
分木は石材を使うこともある。長方形の石や親石・子石を組み合わせて向きや水量を調節していた。

番水台帳によるもの

香盤(香時計)

香盤(香時計)
さぬき市歴史民俗資料館蔵

1番水とか2番水とかいうように順番と時間を定めて配水する。
時間といっても時計がなかった時代、日の出、日の入り、日中、太陽の位置(子の刻とか暮六つなど)などで取り決めたが、
正確に計るために、図のような香盤が使われた。
これは抹香を焚き、反別に応じて受けた抹香の延長を計るのである。
その他線香・火縄なども用いられた。

水引き番によるもの

「水引き」と言う人を選び、これによって順番に配水する。

----------------参考:昭和60年発刊寒川町史

ゆるに富田焼の土管が ー寛政11年(1799年)

富田焼の土管

富田焼の土管
さぬき市歴史民俗資料館蔵

土管の印銘

土管の印銘

五井・田辺池は旧県道長尾・大内線沿いにある。
東平尾と西平尾の丘陵の狭間に築かれた両池は、30m余りの水路で結ばれ、水利慣行を共有する夫婦池である。
爛川の上流、栗栖頭に取水堰をもち、加えて平尾の丘からの流入水で富田西村の穀倉地帯(爛川と古川との間)を潤す、古い時代からのため池である。
築造後の両池は、池及び用水路の保全のため毎年のように修繕工事(泥出し、ゆる替え等々)がなされたようだ。
戦後田辺池のゆる替えの時、富田焼の土管が出た。土管には「寛政十一己未寒川郡富田西村焼物師助三郎焼」の印銘があった。
ちなみに、この富永助三郎は幕末まで続いた、8段の登り窯を有する吉金窯の総師で、理平焼と深い関係がありました。
---参考:平成12年香川県農林水産部土地改良課発行 「讃岐のため池誌」---

義民徳武・久森某の悲しい物語

義民久森ののぼり

義民久森ののぼり
さぬき市歴史民俗資料館蔵

「田の王、宝の星となって天に輝く」
の意が伏せられているのではなかろうか
十川安則先生執筆「古里の四季」より

昭和52年(1977)香川用水導入工事で吉野川の水が田辺池に入るまでは、水争いが絶えず、総代になるものがいなく人選もたいへんだったとのこと。
5月にしつける(田植えする)と池の水が空っぽになり「お月夜にでも焼ける」とまで言われ、水がからく用水不足に悩まされた。
田辺池については義民徳武・久森某の悲しい物語が「大川町史」で次のように語られている。

寛保2年(1742)6月13日大洪水あり、その被害は甚大であった。
この惨状を眼のあたりに見た徳武・久森の両人生来同情心の深い若者だけに傍観するに忍びず、租税の軽減を庄屋・大庄屋に懇願したがらちがあかなかった。
寛保3年2月20日藩主松平公は白鳥神社参詣と併せて、東讃初巡視に出かけた。
徳武・久森の両人は、藩主の行列が富田西・田辺池の堤上を通行の際、禁制とされていた直訴をしたため、両人はその場で直ちに捕縛せられた。
これを聞いた富田中の本覚寺(現在廃寺)の住職秋仙は、両人をふびんに思い赦免を願い出たが聞き入れられず、同年9月7日両名とともに斬罪に処せられた。
秋仙について、いつの頃からか里人どもは「なさけなや、我が身柄は、田辺の池の底にあり」とうたうようになったという。
徳武某の墓は、富田西大道の産宮神社の西側住家の間にあり、久森某の墓は、富田西公民館東50m北側にあり、土地の人びとは徳武神社・久森神社と呼んでいる。なお秋仙の墓は、ただれ川橋の西南側にある。
のぼりは直訴の翌年講中によって作られたと思われ、これからも当時の農民たちにいかにしたわれていたかを知ることができる。

参考:昭和53年発刊 大川町史

池の伝承的漁法 -イタギ漁ー

田辺池の池干し

田辺池の池干し
イタギと投げ網

香川には水田の灌漑用の溜池の数が1万5千にもおよぶ。
池の水は、夏のうちに田畑に落とされて、秋の10月から11月にかけて池は干上がる寸前になる。
昭和10年代までは、秋がくると、池の近くの農家の人々は、日を決めて干上がった池の底の泥水にいるコイやフナ・ドジョウ・ウナギなどを取った。その時に用いる漁具の一つがイタギである。

当日までに

池は秋に水が干上がった頃に、1~3年に1回、ごみ出しをする。
そんなときに、日を決めて魚とりをする。日取りは池総代が決める。
魚とりの日取りや時間は、付近の集落に張り紙をはってあらかじめ知らされる。
例えば、大川町の新池は10月20日、使用料イタギ幾ら、投げ網幾ら、ウナギカキ幾らということで、魚とり好きの常連は仲間同士であちらこちらの池の情報を伝える。
当日は、近郷近在から100人、200人という農民が、腰にウナギカキを差し、手にイタギをもって池にあつまる。見物人も堤防に群がる。
魚とりの始まる前に、各自でイタギを水に浸しておく。
イタギは毎年この時期に使うだけなので、乾燥しており、あらかじめ水気を与えておく必要があるからである。

魚とりーコイやフナー

イタギ

イタギ
さぬき市歴史民俗資料館蔵

イタギ漁をするときの服装は、フンドシかパンツ、上半身ははだかである。
作業開始が迫ると、イタギを手にかまえて、池の底の水際に一列に環を描いて立ち並ぶ。
池総代の太鼓か鐘を合図に、一斉に泥しぶきをあげて魚とりが始まる。

イタギを用いる場所は、水際から水深1mの深さくらいまでである。
イタギの上縁部を両手で支え、水底へ向けて勢いよく押し下げる。
魚がイタギに入ると、こつんこつんと竹に当たり、その手ごたえで分かる。
片手を上部の口から突っ込んで魚を掴み取る。
とった魚は、腰に提げた布袋に入れる。この布袋は幅約30cm、深さ1mくらいの木綿製の手作りの袋である。
たまに80cm以上の大きなコイをふせることがある。そんなときには、イタギのまま、陸に引きずりあげる。
なおウナギはイタギではとれない。
イタギによる魚とり作業は、約1~2時間で終わる。池のコイやフナは殆ど取り尽くされる。

ウナギ取り

ウナギカキ

ウナギカキ
さぬき市歴史民俗資料館蔵

イタギが終わったあと、数十人でウナギとりが始まる。漁具はウナギカキである。
大勢でのイタギ漁が終わると、深い所にいたウナギが水際の浅い所に移ってくる。
ウナギのいそうな所を、ウナギカキでひっかき回すと、ウナギがカギにかかる。
イタギ漁でとった魚は、自家用にするか、親類や隣近所へ分配する。決して商売にして売るものではない。どこまでも楽しみと食糧自給が目的である。

イタギ作り

専門の竹細工師がいるが、農民で器用な人なら自分の体に合わせて、自分で作る場合が多い。
本体の材料はマダケである。マダケを切る時期は、タケノコがすんだ9月の中ごろから10月にかけて切るのが一番よい
このころに切ると、竹に虫がつかない。切る時期を間違えるとすぐに虫がつく。
なお。イタギ作りの工程は香川県漁業史に詳しく掲載されている。

-----参考:昭和60年発行 香川県史 第14巻資料編 民俗

池や川で良く使われる魚具

前ガキ

前ガキ
さぬき市歴史民俗資料館蔵

ウナギもんどり

ウナギもんどり
さぬき市歴史民俗資料館蔵

もんどり

もんどり
さぬき市歴史民俗資料館蔵

びく(浮きます)

びく(浮きます)
さぬき市歴史民俗資料館蔵

生けす用竹籠

生けす用竹籠
さぬき市歴史民俗資料館蔵