軒原庄蔵像

さぬき市歴史民俗資料館
 灌漑コーナ ガイド 
みろく池を造り、守った人達

LastUpdate 2023.01.28

みろく自然公園

弥勒池

弥勒池

富田茶臼山古墳

富田茶臼山古墳

弥勒池は「自然と史跡のまち」をキャッチフレーズとして開園された「みろく自然公園」の中にある。
なだらかな丘陵と緑豊かな森林に囲まれた池は、神秘的とも思える碧く澄み切った水に木々が美しく映える。四季折々に咲き競う花、遊歩道に囲まれてすっかり自然の中に溶け込んだ農業用のため池である。

堤防上からは県道高松・長尾・大内線バイパスをはさんで、北側には四国最大の規模を誇る国指定史跡「富田茶臼山古墳」が目の前に見える。

池の名の由来は、かってこの地から弥勒菩薩が掘り出されたことにちなんでつけられたようである。
この池がいつ、誰によって築造されたかはわからないが、18世紀には通池・中池・奥池(上池 現在の弥勒池)の3個の池が築造されていたことの記録が残っている。

弥勒池石穴

弥勒池石穴の写真

弥勒池側の石穴

玄光谷側の弥勒池石穴

玄光谷側の弥勒池石穴

池の水源は津田川水系、大川ダムから500m下流の砕石地区に取水源がある。ここから砕石谷の棚岩の不動さんの西側山裾の用水路を下り、みろく隧道を経て取水している。
また弥勒池の南、玄光谷の東側面周辺からの自然流入水が主な水源である。
苗代時期までに大川ダムの水を取水、弥勒池(上池)を満水させ、そしてその7割は増築した当時からの慣行で西隣の羽鹿池へ送水している。

弥勒池碑その1 −有馬胤滋による2.6kmの掛井手ー

故田中正保先生の執筆により、合併前当時の大川町広報に「松の落葉」が連続発表されていました。 以下の文は昭和37年に発表されたこの松の落葉(五)から抜粋しております。

弥勒池碑

弥勒池碑

池の西堤に二つの石碑が立っている。その一つは大きい自然石に、「掛井が出来たのは文政十一戍子年八月で、池が成就したのは天保六乙未年3月である。有馬胤滋が之を建てた」と大書してある。

弥勒池と丘をへだてた西隣にある羽鹿池はもともとその奥に適当な水源もなく用水に恵まれず追々増反してゆく耕地を抱え毎年水不足で難渋していた。
そこで弥勒池を大きくしてそこより羽鹿池に水を落として貰うことにする。
そして弥勒池の増水は遠く砕石方面より山裾沿いに掛井手を作って水を引き入れようと計画した。
弥勒池としてはその池掛りは決して水不足はなかったようであるが、庄屋有馬氏の権勢もあって、両池掛りの話し合いが出来た。一説では増築後の池水の3割を弥勒池に与えるとも言われている。
掛井手に就いては他村である田面村及び富田東村に諒解を求めることも簡単ではなかったであろう。
高松藩の許可を得て文政8年3月より先ず掛井手の工事に着手し、4年後の文政11年8月になって約2600mに及ぶ難工事を成就したのである。
併し折角出来上がった掛井手は余りにも長距離を迂回するので、途中において漏水して、また欠損する所が相次いで、所期の目的を十分には達することは出来なかった。

次に弥勒池の拡大修築はこの4年後の天保3年冬に着手し4年後の天保6年3月に完成した。
この碑が立ったのは池が就成してから11年後の弘化3年春である。
・・・

嘉永4年には坂の下に在住の3代目軒原庄蔵が中村の石仏免通り池の下「池北」へ移住して行った。
そして翌年に富田中村の庄屋を仰せ付けられた。
同氏はその3年後の安政2年7月には弥勒池掛井石穴掘指方御用掛を申し付けられ、県下に於いてもその種の難工事を初めて完成して名声を高めたのである。

弥勒池の碑その2 −石穴隧道ー

松の落葉(六)より

藤澤南岳

同じ場所に並んでもう一つ立派な碑が立っている。これは明治34年の仲秋に建ったものである。
この碑文を作った人は藤沢恒太郎先生で、書いた人は河野善蔵である。

藤沢先生は南岳と号し、香川郡安原村出身の儒者藤沢東畡先生の長子で、漢学を勉強し、若くして高松藩に仕え、後大阪に出て書塾を開き、多くの子弟を教育した勤王の有名な学者である。
先生は明治3年頃には津田の観音堂境内にあった学講所に来て講義していたこともあり、津田松原に立っている琴林碑も先生が書いたものである。
大阪の南岳塾では、富田南川出身の頼富実毅大僧正も学んでおり、鴨居武博士も2年間学んでいる。

弥勒池の碑  ー藤澤南岳撰ー

碑文の大要は次のようである。

讃岐の地勢は南は阿讃山脈、北は瀬戸内海にはさまれ、しかも傾斜が急であるため、田畑の耕作には溜池が必要である。従って池の数も百以上に及んでいて、弥勒池もその中の一つである。
この弥勒池は寒川郡冨田村に在って、かって池のほとりより石仏を掘出したので名づけられたと云う。
その池の広さは大体、上池四町余、中池一町許り、下池十畝位であり、また羽鹿池は凡そ二町である。この四つの池の潅漑面積は五十七町余反に及んでいる。

昔は池が小さく、水が少なくて百姓は早魃に苦しんだが、今日になって耕作に充分な水量になったのは、有馬胤滋(右衛門三郎)、及び軒原紀治(庄蔵)の功績である。

即ち弥勒池を拡大して、砕石方面より山石をうがち、長渠を作って、三つの池を救うたのは有馬胤滋である。
それは文政八年の始めに石渠を作り、天保四年十一月に成就した。これによって水利の及ぶ面積が大きくなった。

また池の水源を玄光谷に求めて、大岩に流水の穴を作って、直にこれを導入し、早魃の心配をなくしたのは軒原紀治である。
即ち安政二年七月に創工し、同四年十一月に竣工し、穴の長さ百五間、谷間の水が滝の如く流れ注ぐようになって完成したのである。

その期間中の大庄屋であってこれに尽力した者は、神前村の蓮井太郎三郎と、津田村の上野甚左衛門、及び志度村の岡田達蔵(建蔵)である。
また高低距離を測定して石穴を作った者は、富田中村の萩原栄次郎であり、その工事を監督した者は、田面村の庄屋 多田信蔵である。

明治廿八年に有馬胤滋の孫、胤賢及び軒原紀治の子、省三等が村人と謀って、その事業を子孫に永く残す為に石碑を建てることになり、有馬胤賢が来て、私にその碑文を書けということであった。
私もかって讃岐に居た頃、津田を始め富田やその他の村々を往来し、鴨居氏兄弟(董太郎、武)や軒原氏父子(庄蔵、省三)と親交があり、或いはこの池の付近に涼を求めて散歩し、句も作り、北方の雨滝山や桧峯の山々を眺め風流を学んだことが思い出されてなつかしく思うので、固辞することも出来なかった次第である。

軒原庄蔵

軒原庄蔵像

軒原庄蔵像
みろく公園内

苦心して成就した掛井も、延長2.6kmもあり、用水の大部分は途中で散逸してしまい、また掛井が池より4mも低いため、ほとんどその目的を達することは出来なかった
1846年夏の大干ばつでは5,6月に上池から中池への水を抜き込んだのは昼1日夜2日だけで、軒原庄蔵が羽鹿掛に抗議したり庄屋に何度も交渉したが退けられ、よそ者ということで掛井、池の保安作業にも協力不用とされた。

嘉永5年(1852)25歳で富田中村の庄屋になり、水不足の弥勒池への導水に腐心、遠距離を迂回する方法は漏水が多く効率が悪いために池よりも高い玄光谷に石穴を掘って導水しょうというとてつもない計画を考えた。
山を迂回するのと違って距離が短いし、自然石なので漏水がない。高松藩もこの妙案を採用、安政2年(1855年)庄蔵を堀抜御用掛に命じ、藩直営で工事に着手した。
石穴の延長は175mもあり気の遠くなるような長さである。

この掘削には知り合いの数学者萩原栄次郎が協力した。栄次郎の計算で両方から掘り始めた石穴が中央でぴたりと合致したというから神業である。

工事監督は田面村の画家多田信蔵で後に庄屋格になっている。

弥勒池掛井石穴穿鑿工事ジオラマ

弥勒池掛井石穴穿鑿工事ジオラマ
さぬき市歴史民俗資料館

実際の堀作業は西が富田村の石工金右衛門、東から田面村の石工奥次が請負、昼夜12人づつの交代で堀り進めた。
ポールの先に提灯をぶら提げて地勢の高低を決めていたという。
昼食の休みには穴の東西よりその進路を間違えないように、人夫共が互いに子守唄を歌うて方向の合図をしたということも伝えられている。
ともかく技術の幼稚な当時、ノミ一本でロウソクの明かりを頼りに、腰をかがめて固い岩を一粒づつ堀砕いて行った苦労は並々ならぬことだったと思う。
はたして予定どうりには進行出来出来なかった

2年4ヶ月後の安政4年11月見事に貫通した。
この画期的工事はもちろん藩内で最初であるが、これは用掛りの庄蔵の卓越した技術と献身的な熱意によるものであり、この功績によって、軒原庄蔵は「郷侍」格を拝命した。

明治2年には満濃池の揺樋石穴穿鑿工事御用担任を命じられ首尾よく完成した。その功績は最も高く認められ、現在同池の守護神として神野神社に合祀されている

数学者萩原栄次郎

富田東村友近部落出身、津田の大庄屋上野家に長らく勤めていたようで、村の公金を収納 している記録ものこっている。
更にこの地方に於いて、ソロバンの師匠として名声が高く、その弟子も大変多かったようである。得意の珠算で雨滝山を測量したことも伝えられている。
慶応2年11月76歳で死去しているので、石穴工事の頃は既に還暦も数年過ぎた高齢であった。

工事監督 多田信蔵こと多田朝信

参考:松の落葉(六)


信蔵の父は八左衛門朝信と言い有名な画家霞岳である。霞岳は庄屋格即ち庄屋待遇であったことは確かである。
多田家の記録により碑文の工事監督 多田信蔵は朝信即ち霞岳である。
霞岳は慶応元年61歳で病死した。

鉄砲

鉄砲
さぬき市歴史民俗資料館蔵

霞岳の父小七郎は鍛冶職で火銃を製作し、藩からは武職に加えられていた。
次男(霞岳の兄)清十郎は父の業を継いで火銃勢作の名声を更に高め、旧松尾村では唯一人の士族となった。
さぬき市歴史民俗資料館に木銃が展示されている。
弥勒石穴が完成した翌年、大豊作となり、霞岳の兄清十郎が神社に鉄砲を奉納したものである。
松尾村の「こども奴」の「おてっぽうさん」がこの鉄砲を担いでいたと言う。

明治維新の満濃池大修築

満濃池放水路

満濃池放水路
当時の石穴隧道はこの途中にある。

満濃池は今から1300年前に築造され、その後空海が拡張し、日本最大の溜池となったが、その長い歴史の中で何度も決壊と復旧を繰り返している。
池地に池内村という村ができるほど放置されていた時期もあったほどである。

当時はどの池も底樋管が木製のため寿命が短く、30年毎に樋管の伏せ替え工事を行ってきたが、そのつど十数万人の労力と多大な費用を要するからである。

長谷川喜平治1849年創案の石材を使った樋管の伏せ替え工事が1853年完成した。
しかし、翌年の安政元年の地震で石樋の継ぎ手が狂い、漏水が始まり堤決壊となった。
世は幕末で世情は騒然とし始めたところでもあり、各藩の意見の一致を見ることができず復旧もされないまま幕末に突入する。

長谷川佐太郎

豪農で熱心な勤王家でもある榎井村(琴平町)の長谷川佐太郎は復旧のため倉敷代官所及び三藩の間を奔走していたが、明治維新を迎えると彼の陳情書は功をそうし満濃池復旧の官裁を得た。
佐太郎は各藩の意見を調整し、松崎渋右衛門や倉敷県参事島田泰雄の協力を得て明治2年9月起工するにいたった。

松崎の石穴貫穿の方針により、軒原庄蔵の技術を得て、多額の資財も投じて同3年6月遂に万代不朽の石穴樋門を成就した。
彼の功績は堤上の頌徳碑として残されている。その後松崎神社に合祀された。
高松藩の勤王派の執政、松崎渋右衛門は現地を視察し、永世不朽の樋門をつくるには池の西部に岩穴を貫穿するほかはないと考え、佐太郎にその壮挙を託した。

土木工事に詳しかった松崎は石穴貫穿には両方から掘穿する神業とうたわれる技術を持つ軒原庄蔵を起用したが勤皇派だったためか着工の直前暗殺された。
佐太郎は神野神社の境内に松崎を祭る神祠を建立した、後の松崎神社である。
実際の工事は大岩盤に隧道をくりぬき底樋にするという難しいものだけにその方の専門家が必要だった。

軒原庄蔵は寒川郡冨田村の庄屋であるが、玄光谷(みろく)石穴貫穿の実績が認められて、明治2年高松藩より満濃池石穴貫穿工事御用担当を命じられた。
この石穴は延長50mであった。延長は短いが弥勒池と比べて池の規模が大きい満濃池の底樋は内径が1mもあった。
しかしやはり両端口から掘り始めて貫通させている。
この工事は翌年春の明治3年3月に完成した。

当初は工事に危惧を示していた人々も庄蔵の技量に改めて驚いたという。双方からの掘削では寸分違わなかったというから藩役人も舌を巻いた。
庄蔵は高松藩地士に取り立てられ、後に佐太郎と同様に松崎神社に合祀された。

参考:平成12年香川県農林水産部土地改良課発行 「讃岐のため池誌」