池にゆるぎがみえる

さぬき市歴史民俗資料館ガイド
 ため池の普請 維持管理

Last Update2017.6.24

築堤工事

ため池築造の技術指針については、藩が作成した設計基準である「分量集」(寛政10年・木村家文書)にその大綱が示されている。
「新池を築堤法合(のりあわせ)を究(きめ)る定法」のなかで、前法、後法、それぞれの敷幅と天端幅が定められている。
築堤工事は、用土を掘削して現地まで運搬し、これを敷き均らして展圧するという、作業としては極めて単純なもので、この工事の手順は、江戸時代も現代も変わりはない。
ただユンボやダンプカーもブルドーザもない時代の、人手だけを頼りにした人海戦術である。

搗き棒

搗き棒

用土の掘削はで、運搬はもっこによる人肩運搬か、せいぜい小車運搬で、これを薄く均一に敷き均して展圧する。
展圧は、大勢の人夫を縦隊に並ばせ、搗棒を持たせ、采配人の音頭に合わせながら締め固める。いわゆる杵搗、千本搗という工法が主体である。
ほかに踏締めと称して、大勢の人夫に隊列を組ませ、これを追い立てて足で踏み固める工法もある。

タコ

タコ

またタコ搗と称して、大石を丸く扁平に加工したものに数本の縄をつけ、音頭に合わせて引き上げて落下させて締め固める工法もとられた。
一般的に、工事は冬季の少雨期を選び、土俵などを積んだ仮排水路を造ってから底樋工事を完成させ、これを排水路に使用しながら築堤を進めたものと思われる。
だが渓流や大きい河川を締め切って堤を造る場合は、工事中の排水処理が難しく、その工法は困難を極めたようである。

取水施設

ため池の構造

江戸時代のため池の構造
讃岐のため池誌

櫓 俗称スッポン

取水装置の一部 櫓 俗称スッポン 
斜樋管・底樋管とも当館にて展示中

ため池の取水は通常、堤体の前法面に沿って埋設する竪樋(斜樋管)に取水孔を設け、これから取り入れた用水を堤体の底部に埋設する底樋(底ゆる、底樋管)に導いて堤外に排出する。
底樋管の構造は、ため池の規模によりさまざまで、小ため池の場合は堀樋と称して、長丸太を縦に挽き割り、それを矩形に掘り抜いたものを、元のように重ね、カスガイで結合して使用することが多かった。

ため池の規模が大きくなると、指樋と称して厚板を切り組み、箱型の樋に組んで使用する。
旧来の木樋の吐出口は、吹上げ状になるよう設置して、常に木樋管を水没させ腐食を遅らせる工法をとっていた。 ただこれらの構造物は、よほど入念に施工しないと漏水して堤防決壊の原因となる。
また腐食したため漏水して決壊した池は、枚挙に暇がない。
このため木造の場合2・30年毎に取り換えが必要であり、莫大な費用と人力が必要であった。

堤 決壊

嘉永7年6月の大地震のおり、満濃池は、木造底樋を石造に変えたのが原因か、同年7月(1854年)に破堤した。
この頃、大川町での、地震による堤決壊としては、富田東村の御用留(寒川町 田中浩一氏蔵)に、船原池堤決壊の記録があった。
寛政元年(1789年)4月16日夜八ッ時分に大地震あり、船原下池の堤長さ100間余り、堤の前半分破堤した。
嘉永七年(安政元年、1854)11月5日晩7ッ時頃から6日朝まで56度の大地震あり。この地震で船原上池の堤に大穴ができ、水がふき出した。・・・・・

ところで 大川町の船原下池の地は一説に、古代舟が造られた所で、津田川から土居川をのぼって舟が出入りしていたとも言われ、早くから開けた土地柄である。
池尻から天領田(特別に「水ぶに」がみとめられていた)を降りた所に神明さん(建武三年丙子、刻銘凝灰岩製笠塔婆)が祀られるなど周辺には古跡が点在している。

井戸と普請

徳田の井戸

徳田の井戸

みろく公園の西裾に羽鹿池がある。天保年間、有馬胤滋の尽力により、みろく池に掛井手ができ、みろく池が拡大されて以来、その増水分の7割が羽鹿池に放流されており、まさにみろく池あっての羽鹿池である。したがって、経費も7割負担とされ、現在も継承されている。

天保年間、みろく池の拡大修築と羽鹿池の拡張工事が相次いで行われた。
羽鹿池拡張工事の現場監督として尽力された徳田直衛の屋敷は羽鹿池の西側に、隣接し、当時の長百姓であった。
そのおり、徳田家には高松藩御用普請奉行が投宿したので役人の賄いや大勢の人夫たちの面倒をみたのである。

当家の庭にはずっしりと重々しい切石で囲まれた古井戸(当時は滑車井戸)がある。
普請奉行が直轄で掘ったもので深さ4間(7.28m)余り、水質が良く贅沢な水量を誇った。
この井戸端にかって大勢の工事関係者の食事が次々に整えられていったことであろう。
水利史に残る「仕渡し池普請」の先端基地としてこの家の庭は振るわったといわれる。

当時、掛井手(導水路)を作るときは、夜、何人もの人に「提灯」を持たせ対岸の山から望見し、伝令を走らせ、何番は上とか下とか伝えて高低を測っていたとのことである。
また池の閘抜き(ゆるぬき)をする日は、朝から寿司を作り、主掛り(地主)役員が配水路ごとの担当の水引人を決めたり、水引賃を幾らにするか等を協議の後、この寿司を食べ、その後で閘抜きをしたという。
しかし、みろく池の拡大修築と羽鹿池の拡張工事が相次いで行われたとはいえ、香川用水の恩恵を受けるまでは、近年まで3年に1回は干ばつという厳しい水事情であった。
特に昭和14年の干ばつの時は、県の指導もあって、ヤカンで水をかけたりした(土瓶水)が、収穫は皆無であったという。

参考:平成12年香川県農林水産部土地改良課発行 「讃岐のため池誌」