金山の山頂から北へ約100m下った所に金山1号墳があります。直径7m、高さ2mの円墳で墳頂には西向の横穴式石室が露出しています。遺物は出土していませんが石室の構造からは古墳時代後期といえます。古墳時代後期の古墳は普通、山の斜面など平地に近い場所に造られることが多く、当例のような山頂付近への造営は珍しいといえます。
金山は中世、富田庄、石田郷との境界でした。1143年の『安楽寿院文書』に次のような文があります。
‥富田庄‥‥四至 東限大内郡堺、西限石田郷内東寄艮角西舟木河并石崎南大路南泉畔、南限阿波国堺、北限多和奇神前雨堺山峯
石崎が金山で、金山古墳群は境界の目印になった可能性があります。同じような例として他に大井七つ塚古墳があります。
金山は流紋岩が採石される山で弥生時代、鴨部川田遺跡で出土した磨製石包丁(ませいいしぼうちょう)は金山から運んできた可能性が推測されています。また、江戸時代(1654年)、銀採掘のため掘られたという洞窟があります。
金山古墳群と周辺の古墳地図
金山の東側斜面にあります。山をそのまま西に登ると尾根の鞍部(二つの山が接続した箇所)に至り金山2号、3号墳があります。
古墳は横穴式石室が2基開口しています。遺物は見つかっていませんが、横穴式石室であることから古墳時代後期と考えられ、金山古墳群と同時期といえます。2基の古墳から東に下った地点で箱式石棺が発見されていますが、詳細は不明です。2年前(2005年)この付近で須恵器の破片を採集しました。他に古墳が見つかる可能性が十分にあると思います。
平砕古墳は一昔前まで石室内を物置として使用されていましたが、今は荒れはて雑木林に覆われています。さぬき市内に残る横穴式石室の一つとして清掃・管理していく必要性を痛感する古墳の一つです。なお、平砕古墳の北には吉金古墳群があり、須恵器が採集されていることから同じく古墳時代後期の古墳と指摘されています。吉金古墳群も保存状態は悪く崩壊の危機にあります。
平砕古墳群と金山古墳群地図
山の尾根に築かれた前方後円墳です。全長約35mは丸井古墳、 稲荷山古墳、奥3号墳、奥13・14号墳、鵜の部山古墳などとよく似た大きさです。昭和37年の発掘調査では後円部から遺体を埋葬する施設が2つ見つかりました。一つは石を積み上げた竪穴式石室、もう一つは粘土で棺を被覆した粘土槨(ねんどかく)というものです。中からは中国の鏡やガラス玉、管玉が出土しており、時代は古墳時代の前期の前半頃と考えられています。古枝古墳の発掘された頃はまだ奥3号墳も丸井古墳も見つかっておらず、古墳時代の古い前方後円墳といえばこの古枝古墳でした。
古枝古墳測量図
竪穴式石室と粘土槨
富田神社本殿のすぐ裏にある美しい円墳です。墳丘の周りには溝状の窪みが見られ、周溝(しゅうこう)の可能性があります。立地的に富田神社の真後ろになることから、本来、神社のご神体として、或は神社が造営される基準であった可能性が推測されます。墳頂からは土師器杯(はじきつき)が採集されていますが、奈良〜平安時代(9世紀頃)の土器で、富田神社が創建されたと云われる時期に符合します。富田神社周辺からも同じ頃の遺物がいくつか発見されています。(遺物はさぬき市歴史民俗資料館にあります。)
戦国時代、雨滝城主安富氏が神社を再興したと云われており、墳丘にはその頃の石造物が安置されています。
富田神社古墳と周辺の古墳・遺跡地図
今回見学した古墳は雑木林に覆われ発見されにくくなっていたり、墳丘の一部が破壊されていたりと、いかに古墳を保護していけばいいか、課題を投げかける古墳といえるでしょう。古枝古墳以外は正式な発掘調査は行なわれておらず、遺物もほとんど今に伝わっていません。
古枝古墳は昭和37年に発掘調査され、立派な前方後円墳であることが判明しています。ただし、現状は後円部頂以外雑木林に覆われ、墳丘の全容は全く見ることができません。墳丘を区画する溝など興味深い特徴がいくつか見られますが、それが見学できるようになっていないのは非常にもったいなく思います。今後、これらの古墳についての保全を考えていく必要があります。なお、古枝古墳は昭和37年発掘調査当時の映像記録が残されており、これらの映像保存も今後考えていかなければならない問題です。