日時 平成18年11月4日(土)
さぬき市古墳勉強会第2回見学会
見学地
丸井古墳
尾崎西遺跡は平成4年度の県道高松長尾大内線道路改良で発見、発掘調査されました。この辺りでは昔から極楽寺東古墳と極楽寺西古墳が知られていましたが、発掘調査により昔に破壊されて埋没していた弥生時代の墓や古墳が見つかりました。
弥生時代の墓は円形に溝を掘った円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)というものです。溝は円形に全て周るのではなく、南側で屈曲し渡土手のようになることから、お墓への入口と考えられます。興味深いのはこうした入口が発達して古墳時代の前方後円墳になったという説があることです。なるほど上から見ると前方後円墳の形に似ています。
溝の中からはお墓にお供えしたと思われる弥生土器が発見されていますが、土器の形からは古墳時代になる少し前の弥生時代後期のお墓で、邪馬台国の女王卑弥呼の登場するさらに少し前になります。
日本の国が大和朝廷の成立により国家としての形が出来上がってきた時に前方後円墳という日本独特の古墳文化が栄えますが、その少し前に造られた前方後円墳の原形の一つが尾崎西遺跡円形周溝墓です。
極楽寺東古墳は古くから知られ、江戸時代の『讃岐国図会』にも描かれています。ただ、古墳時代でもいつ頃に造られたかはあまり解っていませんでしたが、平成4年度の尾崎西遺跡の発掘調査や平成7年度の極楽寺東古墳周辺の調査で古墳時代後期、西暦500年の半ばから後半の古墳であることが判明しました。
調査では古墳の周りに溝が巡っていたことが明らかとなり、溝の中から須恵器(すえき)と呼ばれる鼠色の土器や馬に取り付ける馬具(ばぐ)が出土しました。古墳の内部は発掘していませんが、これら遺物から洞窟状に石を組み立てて作った横穴式石室(よこあなしきせきしつ)であると考えられます。周辺である尾崎西遺跡からも埋没していた横穴式石室が数基発見されています。
極楽寺東古墳の西側の川跡で発見された土器は韓式系土器(かんしきけいどき)と呼ばれるもので、朝鮮半島から渡ってきた人々或はその子孫が使用していたと考えられています。
時代は土器の形から古墳時代中期、西暦400年代の前半と考えられます。この時期は朝鮮半島から多くの人々がやってきます。彼らを渡来人といいますが、渡来人は日本に土器や鉄製品、乗馬の風習などさまざまな製品や技術を伝え、日本文化は大きく影響を受けます。西暦400年の前半といえば、四国最大の前方後円墳、富田茶臼山古墳の時代です。同じ時代に長尾地区では渡来人が住んでいたことが考えられるのです。
四国最大の前方後円墳富田茶臼山古墳が造られるのは古墳時代中期の前半、西暦でいうと400年代の前半、世紀では5世紀の前半になります。
香川ではこの富田茶臼山古墳が造られた後は大きな前方後円墳がほとんど造られなくなり、小さな円墳になってきます。川上古墳もそうした円墳の一つで、古墳時代中期の後半のものです。
遺体を葬った埋葬施設は竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)で、これは古墳時代の初めから見られるものですが、中へのお供え物は古墳時代の初めとは大きく変化しています。
古墳時代の最初である古墳時代前期は鏡のように祭りや呪術品が特徴ですが、中期になると剣や鏃、甲冑(かっちゅう)など武器・武具が多くなります。川上古墳からも甲冑やたくさんの鉄剣・鉄刀、鉄鏃が発見されています。
また、土器も多くありますが、古墳時代前期では弥生土器の発展した赤色の土師器だったのに対して、川上古墳の古墳時代中期では須恵器(すえき)がみられます。
須恵器は日本で初めて窯(かま)で焼いた焼物で、鼠色に発色するのが特徴です。注目されるのは窯で土器を焼くという技術は朝鮮半島からきた渡来人が伝えました。渡来人といえば尾崎西遺跡では川上古墳よりも古い朝鮮半島で見られるような土器(韓式系土器)が出土していますが、川上古墳から出土した須恵器はこうした渡来人が伝えた技術で焼かれているのです。
山の上に築かれた全長約40mの前方後円墳です。後円部の頂上には2基の竪穴式石室があり、現在1基が観察できます。竪穴式石室は全長約6mと非常に長いもので、古墳時代中期の川上古墳とは大きく異なります。
墳丘には葺石と呼ばれる古墳の表面に敷いた石が残っています。今は形がくずれて葺石の様子や石の置き方はよく解りません。
墳丘からは他に広口壷(ひろくちつぼ)の破片が発見されていますが、この壷は埴輪が出てくる前のいわば埴輪の原型と考えられているものです。
埴輪は古墳に置くために作られるもので、日常生活で使用するものではありませんが、この広口壷は日常生活で使用する土器とほとんど変わりません。実際、同じような土器が寒川メガマートや石田高校周辺で発見された森広遺跡という弥生時代の集落の中から発見されています。同じような土器は他に稲荷山古墳よりさらに山奥となる丸井古墳や津田町鶴羽地区の鵜の部山古墳で見つかっています。
丸井古墳の場合は日常使う土器との違いとして底に孔を開けている点が指摘できます。
山の傾斜面に造られた古墳です。洞窟状に石を積上げて造った横穴式石室(よこあなしきせきしつ)と呼ばれる埋葬施設です。
横穴式石室は古墳時代前期・中期に造られた竪穴式石室とは構造が大きく異なります。これは単に形が違うだけではなく、竪穴式石室が基本的に一人を埋葬するのに対して、横穴式石室は普段は入口を塞いでいて、人が亡くなる度に入口を開けて埋葬する仕組みになっています。つまり、多くの人を埋葬することができ、横穴式石室の古墳は家族のお墓と考えられています。石室の中は2つの部屋がありますが、入口側を羨道(せんどう)、奥側を玄室(げんしつ)といいます。
この横穴式石室は古墳時代の後期、西暦500年以降にたくさん見られ始めます。また、竪穴式石室に比べて非常にたくさんあることから、古墳を造ることのできた人々が増えたことを示します。古墳時代前期の前方後円墳は一部の支配者が葬られたと考えられていますが、この横穴式石室は力のあった農民も造ることができたと考えられています。同じ古墳という呼び方ですが、古墳時代前期と後期の古墳では死者の葬り方、死に対する考え方、古墳を造ることのできた人々の性格など様々な点で違いがみられます。
長尾地区は古墳時代前期から終末期までの全時期を通じて一通りの種類の古墳が見られ、古墳の勉強には最適な地域です。また、古墳が造られる前の弥生時代に造られたお墓も最近の発掘調査で明らかになってきました。
その中には尾崎西遺跡のように前方後円墳の祖形と思われる墓もあり、弥生墓から古墳への発展を追っていくことのできる重要な地域です。
塚原の山中にある丸井古墳は現在のところ、高松市鶴尾神社4号墳とともに県内では一番古い古墳であることが指摘されています。
一方、古墳時代中期、富田茶臼山古墳が出現した頃には、韓式系土器という朝鮮半島からやってきた人々である渡来人が使っていた土器が尾崎西遺跡で出土しています。
また、この渡来人がもたらした窯で土器を焼く技術から須恵器が焼かれ始めますが、その一番古い段階のもの、朝鮮半島で見られる焼物と形がよく似ている須恵器が陵遺跡で出土しています。
そして、数世代を経て、日本らしい形に変化した段階のものが川上古墳から出土している須恵器です。
このように長尾地区では渡来人の足跡とその渡来人の技術の介入が推測される古墳を見ることができ、富田茶臼山古墳の時代、そして、それ以後の時代の社会を考えるのに非常に大事な資料を提供してくれています。
6世紀、西暦500年代は古墳時代後期と呼ばれる時代です。この時代は亀鶴公園の中に小さな円墳がたくさん見られます。一箇所に小さな古墳をたくさん造ったものを群集墳(ぐんしゅうふん)といいますが、古墳時代後期は群集墳の時代といえます。
これは、それまでの一部の支配者に加えて有力な農民も古墳を造れるようになったためで、一般に彼らの古墳は多くの人を埋葬できる横穴式石室を設けており、家族墓と考えられています。
大石地区にある大石北谷古墳も元々は周辺にたくさんの小さな古墳があり、群集墳になっていました。現在はそのほとんどが破壊されてしまい、大石北谷古墳は破壊されずに残された貴重な文化財といえます。ちなみに大石北谷古墳は7世紀、西暦600年代のさらに新しい古墳で、日本史では645年に大化の改新がおこり、古墳時代から飛鳥時代、奈良時代へと大きく社会が変化していきます。大石北谷古墳はまさにそうした社会の大きなうねりの中で造られた古墳です。