日時 平成18年12月2日(土)
さぬき市古墳勉強会第3回見学会
見学地
神前古墳出土の家型埴輪
張氏作銘 三角縁三神五獣鏡
香川県奥3号墳
径22.7㎝ 同笵鏡10
旧寒川町と旧大川町の町境にあり、大川町側では大井七つ塚古墳、寒川町側では石井古墳と呼んでいました。いつ頃ここが町境になったかわかりませんが、東と南の寒川町と大川町の町境は康治2年(1143)『安楽寿院文書(あんらくじゅいんもんじょ)』にある富田荘と石田郷の境界とおおよそ一致するので、北側のこの場所も一致する可能性があります。そうすると平安時代後期にはここが境界地であったことになります。古墳の造られた頃は境界地だったか解りませんが、平安時代後期には境界の目印に古墳群を利用していたかもしれません。
古墳は尾根稜線上にたくさん円墳があります。このように一定の土地に多くの古墳があるのを群集墳(ぐんしゅうふん)といいます。群集墳は6世紀代の古墳時代後期に盛んになりますが、この古墳はそれよりも古い5世紀代の古墳時代中期です。一般的な群集墳より少し古いということで古式群集墳と呼びます。
4号墳は昭和39年に発掘調査され4つの埋葬施設が見つかっており、横穴式石室が普及する前のお墓のあり方として注目できます。横穴式石室であれば一つの石室を何回も開けて埋葬しますが、4号墳ではその都度埋葬施設を造っています。出土品は長尾地区の川上古墳によく似ていて馬具、甲冑、鉄鏃、須恵器などがあります。
大井七つ塚古墳地図
地蔵川が山間の谷から曲がり平野に流れ出る地点にあります。この場所は川に向って尾根が張り出しており、6基の円墳が尾根上に並んでいます。
東から西に向って1号、2号と名前がついています。北側が現在崖になっていますが、これは土取り作業によるもので昭和56年に古墳が壊されそうになったため1・3・4号墳の発掘調査が行なわれました。
古墳はすべて横穴式石室です。発掘調査で出土した須恵器からは6世紀後半の古墳時代後期に造られたことが判明しました。6世紀後半はさぬき市の様々な地域で横穴式石室が造られています。
6基の古墳はどれもあまり時代差はなく、ほぼ同じ時期に造られた家族墓で、人が亡くなるたびに埋葬されていたようです(これを追葬といいます。)。
古墳のある尾根は東から北に向って高くなっていますが、古墳もそれに合わせて並べており階段状にみえます。今は2号墳の横穴式石室だけ中に入ることができますが、現状では2号墳が6基の古墳の中で一番大きく、大末古墳の中では一番有力な家族の墓であったと考えられます。
2号墳は東から2番目にありますから、尾根の一番高い場所や真ん中、低い場所ではなく、一見中途半端な場所に一番大きな古墳があることになります。大末古墳は古墳時代後期の典型的な群集墳の一つです。なお、大末の地名は寒川町史には由来不詳とありますが、須恵(すえ)が連想され、須恵器の窯跡が近くにないか興味がもたれます。
大末第3号古墳横穴式石室
石田八幡神社の本殿の西は薄暗い林が続いています。この林の中に古墳が点々と見られます。この古墳も丘陵上に古墳をたくさん造った群集墳になります。
発掘調査は実施されておらず古墳の年代は解りませんが、ここの古墳から出土した須恵器の大甕からは5世紀代の古墳時代中期に造られた可能性があります。
つまり、群集墳としては古手で、大井七つ塚と同じく古式群集墳ということになります。
5号墳の古墳上には平たい石が転がっていますが、これは平たい石を組み合わせて長方形の部屋をつくった箱式石棺という埋葬施設の一部で、竪穴式石室と同じく原則として一人の人間を埋葬するための施設です。
今のところ、ここの古墳からは横穴式石室は発見されておらず、横穴式石室が普及する前に造られた群集墳ということになります。
なお、この場所は今石田八幡ですが、さぬき市内を見ると各八幡には古墳がある場合が多いことに気付きます。
長尾地区宇佐八幡は宇佐神社古墳、鴨部地区鴨部八幡は西山古墳、神前地区男山八幡は寺尾古墳、大川地区富田八幡は富田神社境内古墳があります。また、造田地区造田八幡には古い記録では古墳があったことが記されており、津田地区の石清水八幡では古墳ではありませんが、経塚が本殿の裏山から見つかっています。
石田神社境内古墳周辺図と石田神社境内出土の須恵器甕棺
大蓑彦神社から南に延びた尾根の東側にあります。ここから真北はメガマートや石田高校がありますが、そこは弥生時代の大規模集落の森広遺跡です。北東には飛鳥時代に造られた極楽寺廃寺があり、今は長尾の宝蔵院極楽寺として残っています。また、南の大蓑彦神社は平安時代に編集された『延喜式(えんぎしき)』の「神名帳」に記された古い神社で、鎌倉時代には寒川郡の郡司讃岐基光が大般若経を奉納しています。近くから中国の焼物である白磁の壷(平安時代後期作)が見つかっています。このように歴史的に重要な場所に古墳はあります。
今は1基だけですが、元々はこの山には沢山の古墳があり、いくつかは横穴式石室が開いていました。今はそのほとんど破壊され、この蓑神塚古墳だけが残されています。
埋葬施設は横穴式石室ですが、大末古墳に比べて使われている石が大きいことに気付きます。出土した須恵器からは大末古墳とほぼ同じ頃で時代差はないようです。大きな石で石室を造るには大きな石を運んでくる運搬力とそれを構築する技術力が必要です。ですから大末古墳に比べて労働力と技術力がたくさん必要で、それだけ蓑神塚古墳の方が有力な家族の古墳といえます。
蓑神塚のすぐ東の尾根にも古墳がありましたが、そこは道ができるため数年前に発掘調査し横穴式石室を発見しています。ここの横穴式石室を見ると蓑神塚よりも小さく、使われている石も小さいです。
一方、さらに東にはかつて中尾古墳という古墳があり、蓑神塚古墳よりも大きな石室でしかも古墳は単独でありました。横穴式石室の大きさや使われている石から古墳を造った家族の力の差を推測でき興味深いです。
5号墳石室床面平・立面図
今回は群集墳を中心に寒川地区の古墳を見てきました。もちろん寒川地区も多くの古墳があり、見学した古墳はほんの一部ですから今回だけで全体の紹介にはなりません。
例えば、神前で今ゴルフ場になっている奥古墳群には弥生時代から古墳時代前期の古墳があり、
そこから北西の、男山八幡の山には古墳時代中期の寺尾古墳群があります。寺尾古墳群からは家形埴輪が発見されています。
また、石田地区では赤山古墳、山田古墳、道味古墳が古墳時代中期の古墳で、
古墳時代後期は蓑神塚からさらに東に極楽寺古墳群や相の山古墳群があります。
また、今の天王中学校の丘陵にもかつてはたくさんの古墳があり、1基は中学校の西側にあり、容易に見学することができます。
天王中学校の東には大川町との境となる金山がありますが、金山の山頂付近にも古墳時代後期の横穴式石室があります。
古墳時代後期はあまり高いところに古墳を造らないので、高所に造られた数少ない古墳として評価できます。
このように寒川地区も前回見学した長尾地区と同様に古墳時代を通じて古墳の見学ができます。
しいてこの地域の特色を挙げれば、寺院跡と古墳の関係が検討できる地域ということです。もちろん長尾地区でも願興寺と八坂神社古墳の関係など寺院と古墳の関係はありますが、寒川地区ではより深く検討できる材料が揃っています。
例えば、石井廃寺と周辺にある船井天神山古墳や大井七つ塚古墳、極楽寺廃寺と蓑神古墳群や極楽寺古墳群があります。
特に、極楽寺廃寺とその周辺の古墳は寺跡と年代的に近い古墳が多く、両者の関係が今後の調査によって具体的になる可能性もあります。この地域はまた古代寒川郡の郡司がいた可能性もあり大きな問題をはらんでいます。
壺處字富田庄
在讃岐国寒川郡内
四至
東限大内郡堺
南限阿波国堺
西限石田郷内東寄良角西船木河并石崎南大路南泉畔
北限多和奇神前雨堺山峯