じ しょ う い ん

 自性院常楽寺と称し、志度寺の塔頭(たっちゅう)であった。もとは真言宗御室派に属していたが、現在は善通寺派である。本尊は不動明王。天正年間(1573)志度に来住し、栄華をきわめた摂津の豪族・多田和泉守一族の創建という。元は志度寺の御影堂跡(みえどうあと)ともいわれる。それ故昔から本堂正面に等身大の弘法大師像が勧請(かんじょう)されていた。歴代住職調では、元禄6年(1693)11月に隠居した圭尊を中興開基の初代に挙げている。七代独雄が讃岐の良寛さんと言われた律僧、竹林上人である。堂宇は正徳3年(1713)に寒川政員が再興したと棟札の字があったが、平成2年4月檀信徒の総力で再建された。
 竹林上人については竹林庵へリンクしてください。
 

平賀源内の墓

 自性院北正門から入ってすぐ右に、18世紀から20世紀にまたがる日本の夜明けを演出した平賀源内の墓がある。
 平賀源内は安永8年(1779)12月18日、没年51歳、江戸伝馬町で牢死された。殺傷事件で入牢して1ヶ月足らずのことで、判決も下されないまま、病死(破傷風?)とされた。田沼政治の重商主義で花開いた江戸文化も、松平定信の圧政のもと大田南畝をはじめ言論は完全に統制され、萎縮してしまった。源内の殺傷事件の真相が田沼寄りに語られることはあり得ないことであった。ただ大正13年2月11日、宮内省より従五位が授与されたことは、国としての無罪審判であり、平賀源内の偉業を高く評価したものと考えられる。
 源内の死後まもなく出た「当世見立三幅対」に「死後に至りて今に人のをしがるもの」として3人(平賀源内・秋元弦久・王子路考)の筆頭にあげられ、貴賎を問わず人を魅了して止まない人柄に、惜しまれ懐かしがられたのであった。
 なきがらは杉田玄白、千賀道隆らによって江戸総泉寺に葬られ、志度では妹婿平賀権太夫により安永9年1月27・28日に初七日の法要が営まれた。現在は平賀源内先生顕彰会によって毎年12月に、お墓のある自性院で追善法要が営まれている。

 平賀源内については平賀源内先生遺品館へリンクしてください。




 え ん つ う じ

 奈良時代、行基菩薩が開基。当時は西林坊と呼ばれ、志度寺の塔頭七坊の一つであった。もとは真言宗御室派に属したが、現在は善通寺派である。再興は高松藩祖松平頼重公と伝えられる。本尊は慈覚大師作の聖観音菩薩である。明暦二年(1656)志度寺住職宥忍法印が、自らの隠居所として再興し、以来この寺は歴代住職の隠居所とされていたが、元和年間(1600〜23)頃から中止せられているという。
 江戸時代の中頃、福聚山世尊院円通寺という現在の寺号となる。由来は、観音様の功徳は福聚無量(ふくじゅむりょう)、その教えを説いたお釈迦様の又の名は世尊(せそん)、そしてその利益は円通自在であるところからつけられている。
 本堂には、本尊を中心として左右に西国霊場の各本尊三十三躯の観音像がまつられ、荘厳の中に補陀落観音浄土をかもし出し、西国観音浄土の寺といわれている。
  聖観世音菩薩(本尊を含む) 3躯
  如意輪観世音菩薩     6躯
  千手観世音菩薩     15躯
  十一面観世音菩薩     6躯
  不空絹索観世音菩薩    1
  準胝観世音菩薩      1躯
  馬頭観世音菩薩      1躯
 本堂階下も、7観世音菩薩を奉祀し、浄土としている。
さぬき三十三観音霊場第3番札所
東讃西部二十一ヶ所霊場第5番札所  




ふ も ん い ん

   法性山普門院金剛寺、真言宗仁和寺御室派(おむろは)に属し、もと志度寺の末寺で華厳坊と称していた。本尊は大日如来(鎌倉時代の作)、脇士観世音菩薩(宝永元年の作)、地蔵菩薩(元禄13年の作)。開基は行基菩薩と伝えられるがつまびらかでなく、歴代住職調では、権大僧都法印秀諭を中興開基の初代に挙げている。二代目増秀が延宝二年(1674)に入寂しているから千六百年代前期と推定せられる。
 境内には、源内焼の名工として知られた堺屋源吾の墓があり、境外東に千歳童子蘇生記の千歳(せんざい)の墓がある。