ち く り ん あ ん

 さぬきの良寛さんといわれた竹林上人は、宝暦10年(1760年)木田郡三木町白羽に生まれ、13歳で高松多聞寺で出家得度、安永9年(1780年)志度・自性院に転居し、天明6年(1786年)26歳の時、師哲雄の命により第七代自性院主に就任したが、天明7年3月院主を法弟観道に譲り、三等室に草庵をむすび布教をかさねた。 
 上人には儒・佛両道に通じ、和歌、俳句、詩文に優れ、又書画は竹を殊の外好み竹林と号した。常に単衣を着て、暖かい衣服は貧しい者に与え、「ほいのけた やぶ蚊がせむや 竹の庵」の句のように蚊に血を吸わせ、愛する竹は中ほどから先を切り、釣竿、鳥指棹にさせないようにする等逸話は限りない。

  寛政12年(1800年)6月6日予言して多くの人に見守られながら43歳で入滅した。
 天保3年(1832年)5月17日、33回忌に京都・小野随心院の宮から上人号が送られた。

竹林上人座像

 竹林廟所背後の山の中腹に、上人が一夜で刻んだ坐像がある。
  竹林上人が入定したのは、寛政12年(1800)旧6月6日である。従って西暦2000年が丁度入定200年に当たる年であった。現在に至る毎年の命日には、地元や自性院樫原住職らが中心となって、毎年欠かす事無く追悼法要を続けてきた。       
 また、命日に近い夏の一日には、上人を偲ぶ竹林茶会が催され、県下三大茶会の一つとして志度の風物詩に取り上げられ、時には1500人を超す茶人が集り、賑やかさを見せていた時もあった。




遺跡の場所 さぬき市志度間川地区にあり、さぬき市志度の南西に位置し三木町との境界の山裾に点在している。そして、高速高松自動車道の三木町と、さぬき市との境界にあるトンネルの志度側入り口の上付近に散在する。なお、三十二勝入り口と駐車場は、高速道路下り線側の側道西詰めにて、高速道トンネルの直ぐ北側にある。
構築した人 さぬきの聖僧とも奇僧とも言われた竹林上人
構築の意図 歌作りや説教の傍ら、間川の山に足を運び、独楽堂と名付けた仮の草庵を結び、座禅の行に熱中した。そして、上人はこの素晴らしい間川の土地が大変気に入ったので、此処で修行を重ねながらこつこつと、一人で三十二勝を作り上げた。 
由来  天明7年(1787)3月17日、隠居を許された上人は、間川の土地こそ上人入定の寛政12年(1800)に至るまでの14年間ひたすら仏を念じ、己を悟るための道場であった。
  上人はことさら間川の土地を「摩訶方」(まかわ)と書いている。「摩訶」(まか)とは、般若心経の「まか」で大きい・たくさんの・勝る等の意味があり、素晴らしいとの意に通ずる。造り始めたのは上人が30歳前後の頃で,完成したのは入定10年前の寛政2年(1790)3月と、自ら書き残している。 
  そして、間川三十二勝の道順を書いた文献が現在二つ残っている。其の一つは上人の「摩訶方記」約1200字の短文ではあるが、流暢な漢文で纏めている。今残っている原文は上人の弟子周任が「竹林上人由来記」として書き写したものを、明治38年冬、自性院住職仁澄がさらに写本した物である。

  


    
 


  

 摩訶方記の書き出しは「摩訶方は珠浦の西南四里の所にある(唐土の道法で六町をもって一里とする)。また間川とも呼ぶ。国音で間川と摩訶方と相通じるからである。山があり、ここをめぐって垣のように成って居る。その北方の最も高い所を鬼山という。山の下に崖があって南に向って十歩上がると、梅の宮という祠がある。里人たちはこれを祀って、みな安らかに暮している。およそ珠浦より摩訶方に来る者は、まずここにいたる」と記している。

阿耨窟(あのうくつ) 観我巌(かんががん) 不可識峯(ふかしきほう) 曼荼羅巌(まんだらがん)


間川三十二勝の名称 
鬼山梅宮 きざんうめのみや 白羽坡 しろわざか 撫松原 ぶしょうげん 送月橋 そうげつきょう
萬竹園 ばんちくえん 独楽堂 どくらくどう 遊僊石 ゆうせんせき 有無橋 うむきょう
臨渓坡 りんけいは 鼓石 つづみいし 曇華岡 どんげこう 閼伽泉 あかせん
獨木橋 どくぼくきょう 碧落碑 へきらくひ 獅子洞 ししどう 香爐盤 こうろばん
兎蹊橋 とけいきょう 長嘯巌 ちょうしょうがん 浣花渓 かんかけい 曼荼羅巌 まんだらがん
水楽台 すいらくだい 漱玉瀑 そうぎょくばく 葛岡 くずおか 山臍石 さんせいせき
白蓮池 びゃくれんち 不可識峯 ふかしきほう 雲門 うんもん 鑁字水 ばんじすい
月輪巌 げつりんがん 阿耨窟 あのうくつ 観我巌  かんががん 蓑巌 みのいわ