平賀源内記念館と平賀源内旧邸

 原子力時代を先取りしたと言われるエレキテルの復元をはじめ、火浣布(かかんぷ)の発明はいうに及ばず、本草学(ほんぞうがく)、文芸、陶芸、鉱山開発等、多才多技、十八世紀から二十世紀にまたがる日本の夜明けを演出した平賀源内先生は、享保十三年(1728年)高松藩お蔵番(くらばん)白石茂左衛門良房の子としてここに生まれた。
 幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)、元服して国倫(くにとも)、通称を源内と呼んだ。
また号を鳩渓(きゅうけい)、風来山人(ふうらいさんじん)、天竺浪人、作家として福内鬼外(ふくちきがい)、
俳諧では李山(りざん)と称した。宝暦二年(1752年)長崎に遊学し主として医学、薬学を学び、帰国後、
磁針計、量程器(りょうていき)の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが世間の風当たりが強く、
宝暦四年(1754年)藩を退き江戸に出て、田村藍水(らんすい)に師事し本草学を修め、昌平黌
(しょうへいこう)にも学んだ。
宝暦七年(1757年)田村藍水と共に、日本で最初の物産会(ぶっさんえ)を開き、その後は自ら会主(えしゅ)となった。高松藩では源内先生が高名となるや、一方的に召抱えたが、宝暦十一年(1761年)再び辞職、藩の「仕官お構い」の措置によって、他藩への仕官を阻まれ、遂に生涯浪人の運命となった。その後、伊豆での芒硝(ぼうしょう)発見、壬午(じんご)の物産会開催、「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」の刊行、平線儀の製作、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の開発、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画
の指導、七年の歳月をかけて日本で初めてのエレキテルの復原、更に文芸作品「根南志具佐(ねなしぐさ)」「放屁論(へっぴりろん)」「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」「弓勢智勇湊(ゆんぜいちゆうのみなと)」などを発表し江戸の人気を博した。
安永八年(1779年)、誤って人を殺傷し江戸の獄中で、「乾坤の手をちぢめたる氷かな」と辞世の句を残し、悲運の生涯を閉じた。五十一歳であった。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に葬り、その傍らに碑を立てて、「あゝ非常の人。非常の事を好み。行い此れ非常。何ぞ非常の死なる。」と書きその生涯を見事に総括した名言を遺した。

                                         

 平賀源内記念館     

平賀源内記念館は平成21年に開館しました。日本で初めて復元制作に成功したエレキテル(摩擦起電機)第一号機をはじめ、源内焼の陶器、十歳のとき描いたお神酒天神像(からくり掛軸)、薬だんす、薬研、本草学をおさめた「物類品隲」、陶器工夫書、浄瑠璃「神霊矢口渡」、戯作「根南志具佐」「風流志道軒伝」「お千代伝」「飛んだ噂の評」「長枕褥合戦」など、源内訴状手控、杉田玄白の書簡等百点余が展示されている。

 エレキテル (市・有形文化財)

日本最初の摩擦静電気発生装置。長崎で入手した壊れたエレキテルを七年の歳月をかけて、安永五年(1776年)十一月復元した。江戸時代に作られたエレキテルで現存するものは2台しかなく、もう1台は東京の逓信総合博物館にあり、それも源内先生の作られたものである。


 

き ゅ う  ひ ら が け じ ゅ う た く  し ゅ お く

旧平賀家住宅主屋 (国・登録有形文化財)

所在地:さぬき市志度字越窓46番地1
平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っている。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えであったが、昭和9年(1934)銅像建設のため切り取られ、昭和42年(1967)旧邸内部に遺品陳列館を開設、平成12年(2000)には屋根など大改修される。
旧志度街道(俗称:源内通り)に北面する町家。桁行12m梁間10mの木造厨子2階建、東西棟の切妻造の北正面西寄りに、入母屋造妻入の店舗部分が突出している。本瓦葺で、外壁は漆喰仕上げ、大壁と真壁を使い分け、軒を塗り込めるなど、力強い外観となっている。



   源内先生の銅像は、我が国彫刻界の一大権威者大川郡寒川町石田(現さぬき市寒川町石田)出身の小倉右一郎氏会心の作である。源内羽織を着用し、エレキテルを足元に置き、握棒を持った堂々たる風格で、昭和九年十一月三日盛大に除幕式が行なわれた。

  昌平黌の学友、寛政三博士の一人である柴野栗山が、”人品甚だよし”男前もよく押し出し堂々と評していた源内像である。台座正面に杉田玄白の「あゝ非常の・・・・・」の文字が刻まれ、裏には碑文が銅板に刻まれている。


源内工房

源内工房 昭和54年平賀源内先生二百年祭を記念して建築され、長年平賀源内先生遺品館として源内資料の展示をしてきた。現在は主に源内焼の工房として利用する一方、杉田玄白作の墓碑銘の拓本や源内焼なども展示している。
源内焼 鮮やかな色合い、型押しによる精緻な文様や斬新な造形。源内先生が故郷さぬきで指導した焼物である。
書簡  

 曽祖父以来の高松藩蔵番の家に生まれた平賀源内は、陶村(現綾歌郡綾川町陶)の三好喜右衛門に本草学(薬学・医術)を学んだという。
 寛延二年(1749)父茂左衛門の逝去によって高松藩蔵番の役を継いだ源内は、しだいに藩内で頭角を表し、本草学(ほんぞうがく)の才能を認められていった。
 折しも藩主頼恭(よりたか)は御林(栗林公園)に薬園を整備し、池田玄丈を管理に当たらせた。
 宝暦二年(1752)から翌年にかけて長崎に赴いた源内は、広い世界への目を見開かれ、同四年に蔵番退役願いを提出する。さらに同六年に至って故郷を離れ、一旦上方に滞在した後、江戸に出て当時日本有数の本草学者であった田村藍水に入門した。
 藍水のもとで本草学に出精した源内は、世界最初の博覧会とも呼ばれる「薬品会(やくひんえ)」を提唱し、宝暦九年(1759)八月には主催者となった。翌月、高松藩から与えられた三人扶持(一年に三名が食べて行ける米)を源内は「学問料」ととらえていたようだが、実質的な再仕官であり、藩主の命で薬種採集を続けることになる。
 相模(神奈川県)や紀伊(和歌山県)への採集行のほか、藩内で巴戟天(ジュズネ)を発見するなどの業績を上げ、宝暦十年(1760)には薬坊主格に昇進した。高松藩に伝わった「衆鱗図」などの本草図譜(彩色図鑑)に源内が関与したのも、おそらくはこの頃のことであろう(香川県歴史博物館保管)。また、源内の手で御薬園(栗林公園)の整備も一段と進んだことだろう。
 ただし、宝暦十一年(1761)に再び高松藩を辞して江戸に戻った源内は、翌十二年に第五回目の薬品会を主催し、これは壬午(じんご)の大物産会と呼ばれた。その大物産会の成果を中心に、五回の薬品会を集大成したものが、源内の本草学の主著であるのみならず、当時の本草書の逸品ともなった『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』(宝暦十三年刊)である。本文四巻、図絵一巻、付録一巻の計六巻より成るこの大作は、源内の本草学の質の高さと斬新さを余す所なく物語る記念碑的な著作であった。中でも付録に記された砂糖製造法は、のちの和三盆に結実する讃岐地方の製糖との深い関わりの歴史に記された第一歩として記憶される。

 昭和五十四年(1979)源内先生二百年祭記念に当たり、その偉業を偲ぶため、旧邸の一隅にゆかりの薬草園を新設したものである。


                          もっと詳しくは「平賀源内記念館」のホームページをご覧ください。
                      源内先生顕彰活動の現況はブログ「文化サロン源内」をご覧ください。