日時 平成22年11月6日(土)
さぬき市古墳勉強会第18回見学会
見学地
横立山経塚古墳周辺図
横立山周辺の遺跡・古墳
横立山経塚古墳は古墳時代前期後半に築造された積石塚の前方後円墳です。津田湾古墳群の岩崎山4号墳よりも少し新しい古墳です。今のところ香川では最も新しい、最後の積石塚の前方後円墳です。
古墳の特徴を見てみると香川の古墳に多い地元の特徴が見られます。1点目は後円部には竪穴式石室が確認されていますが、それが東西を向いています。2点目は前方部が細長いです。3点目は後円部だけに外側に積石がさらに見られます(外周段築)。4点目として全長33mは香川の前方後円墳に多い大きさです。
くりかえしますが、横立山経塚古墳はさぬき市の岩崎山4号墳よりも少し新しい古墳です。つまり、畿内的な特徴の多い岩崎山4号墳に対して、典型的な地元色をもった横立山経塚古墳として時代の近い両古墳はいい比較対象といえるでしょう。
墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪の出土が伝えられています。
横立山経塚古墳墳丘
鵜の部山古墳墳丘
前方部
発掘調査された
前方部
今岡古墳墳丘
全長61mの前方後円墳です(岩崎山4号墳とほぼ同じ)。尾根の先端ぎりぎりに造られており、北東からの視覚を意識して築造されたと考えられます。
この古墳で注目されるのは前方部の頂上から焼物でつくられたお棺が発見されたことです。
土製棺
土製棺図面
側板6枚と蓋2枚を組み合わせていました。香川のお棺といえば石棺がよく知られていますが、なぜ石ではなく焼物だったのでしょうか。
この土製棺の形は石棺でいえば長持形石棺によく似ています。長持形石棺は古墳時代中期から多く見られるようになりますが、香川ではまだ見つかっていません。今のところ考えられているのが、長持形石棺が造られるようになる時代には香川では石棺の製作が終焉したということです。
つまり、今岡古墳は石棺が作られていた次の時代の古墳ということです。
今岡古墳を他の古墳と比較してみますと、今岡古墳から東に石清尾山が見えますが、この山には古墳時代前期に代々積石塚の前方後円墳が造られています。この
石清尾古墳群では
石船塚古墳を最後に前方後円墳の築造は終焉しますが、ちょうどその後の時代になるのが今岡古墳です。
また、さぬき市の津田湾古墳群でみると津田湾古墳群の中で最も新しい前方後円墳であるけぼ山古墳と造られた時代は似ています。津田湾古墳群でも次の段階には内陸の大川町の富田茶臼山古墳へ移っていきます。つまり、石清尾古墳群から今岡古墳へ、津田湾古墳群から富田茶臼山古墳へ、というよく似た現象が香川の代表的で好対象な2つの古墳が見ることができ興味深いところです。
最後に今岡古墳の土製棺、最近の発掘調査で同様の土製棺を製作していた遺跡が見つかりました。それは現在の高松西インターで中間西井坪遺跡といいます。どうやらこの場所で制作した土製棺が今岡古墳へ運ばれていったようです。
神高古墳群位置図
高松西高校の周囲の山裾にはたくさんの古墳があります。これらの古墳が造られたのは古墳時代後期、6世紀後半から7世紀初頭にかけてです。埋葬施設は横穴式石室で7世紀中頃まで追葬されたことが発掘された須恵器からわかります。
この古墳群の注目点としては横穴式石室の大きさです。玄室の長さが5m以上の古墳が4基もあります。(古宮古墳=5.9m、山野塚古墳・鬼無大塚古墳・山野塚古墳・平木1号墳=5.4m)ちなみにさぬき市で最大は中尾古墳の5.2mです。神高古墳群から北に2.5キロ行ったところに、古代寺院である勝賀廃寺がありますが、勝賀廃寺を建てた一族との関係が興味深いところです。
横穴式石室の構造に注目してみましょう。石の大きさ、石積みの方法、平面形などを比較してみると、神高古墳群として一か所にかたまっている古墳ではありますがさまざまであるのがわかります。こうした構造の違いが意味するところとして、一つは造られた時代の差があります。6世紀後半から7世紀初頭という比較的短期間ではありますが、時代によって構造が少しずつ変化していった可能性があります。他は一族の違いや横穴式石室をつくった人々の違いの可能性もあるでしょう。神高古墳群は大きな横穴式石室以外にも小さな横穴式石室もあって、身分の差であるのかもしれません。また、面的にみると神高古墳群はかたまりによっていくつかのグループに分けることができ、それが村の違いや家族の違いを示しているのかもしれません。
今回見学しました高松西部の丘陵にある古墳は横立山経塚古墳、今岡古墳という古墳時代前期のものと、神高古墳群という古墳時代後期のものでした。今岡古墳と神高古墳群とは約200年の空白があります。この空白の古墳時代中期の古墳として石清尾山と勝賀山に挟まれた平野に相作牛塚古墳があります。この平野部にはたくさんの塚がありますが、この塚が古墳であるのか後の時代の塚なのか不明なものがほとんどです。今後、これらの塚で古墳であることが判明するものも出てくるでしょう。現段階ではまだまだ謎の多い地域といえます。