さぬき市古墳勉強会(仮)第4回見学会
日時 平成18年2月3日(土)
見学地
四国で一番大きな全長139mの古墳で、香川の古代史を語る上で欠くことのできない文化遺産です。
古墳時代の初めの頃(西暦250〜300年)前方後円墳という鍵穴の形をした古墳は王の墓として全国各地に出現し、古墳時代後期(西暦500年代)までの約300年間造られます。中でも古墳時代中期(西暦400年代)は世界最大の伝仁徳天皇陵など巨大な前方後円墳が目立ちます。
富田茶臼山古墳は古墳時代中期のはじめ頃に造られたと考えられており(西暦400年の初め頃)、まさに巨大古墳の一番盛んだった頃の古墳です。
また、この古墳は香川の古墳の歴史を語る上でキーポイントになります。香川では古墳時代の初め頃はたくさんの小さな前方後円墳が各地で造られます。また石だけで造った古墳など香川で特徴的な点が多く見られます。
それが富田茶臼山古墳の時代に近づくにつれて、段々と規模が大きくなり一方で数が減ってきます。形は大阪や奈良など他地域の古墳と似たものになってきます。そして富田茶臼山古墳が完成する頃は富田茶臼山古墳の他に前方後円墳はほとんど見受けられなくなり、特徴は大阪・奈良の古墳とほとんど同じになります。
このような変化は古墳時代の初め頃から段々と王の権力が強くなり、同時に奈良・大阪など畿内地域の影響が強くなってきたことを示します。その到達点が富田茶臼山古墳だったのです。
だだ、面白いのは富田茶臼山古墳から後の話です。香川では二度と同じような古墳が造られる事はなかったのです。さぬき市内でも富田茶臼山古墳より新しい古墳は全て小型の円墳になってしまいます。富田茶臼山古墳の王は一代で没落したのでしょうか。一代限りで奈良・大阪から派遣されてやってきた王だったのでしょうか。富田茶臼山古墳から約300年後、国の役所はさぬき府中、今の坂出市に設置されます。
参考
富田茶臼山古墳の特徴を見ると、様々な点で奈良・大阪の畿内地方の古墳と共通することがわかります。
まず、古墳を三段につくっていること。奈良・大阪の巨大前方後円墳の多くは三段になっています。そして、各段には犬走り上の平坦地(テラス)がありますが、ここには円筒埴輪と呼ぶ土管の形をした埴輪を古墳の周りにぐるりと並べています。現状では確認できませんが発掘調査で埴輪が並べられていた様子が確認されています。
次に古墳の周りには堀をほって水を溜めていました。奈良・大阪の巨大前方後円墳は巨大な墳丘とともに水を湛えた堀に雄大さ感じます。こうした堀を周濠(しゅうごう)といいます。富田茶臼山古墳の場合、現在水は湛えていませんが、周濠の存在は地形を見れば分かります。
平成5年(1993)、古墳の西側で四角い古墳が3基発見されました。これは陪塚(ばいちょう)とよばれるもので、巨大な古墳の周りには円形や方形、中には前方後円墳の古墳がたくさん造られたのです。陪塚の中には甲や鏡などお供えものだけを埋めているものもあり、お供え物の収納施設、家来の墓、一族の墓など様々な意見がありますが、定説には至っていません。
これらの点から富田茶臼山古墳は奈良・大阪の巨大古墳と同じ特徴をもっていることが判明するのです。
最後に王を葬った施設ですが、内部の様子については今の所不明です。おそらく石棺に葬られているのでしょうが、富田茶臼山古墳から前の時代、津田地区では火山の石を使った石棺が使われました。一方、大阪・奈良の大王の墓は兵庫県の竜山石が盛んに使用されています。富田茶臼山古墳は果たして地元の火山石なのか、兵庫の竜山石なのか、興味深い問題といえます。
参考
神社の南側に2基の古墳があります。
社外の畑の中にある1基は南側に横穴式石室が見られます。石室の石には巨石が使われていますが、このような巨石を移動させる労力、そして、その巨石を積み上げる技術を考えるとこの古墳に眠る一族の権力の強さが偲ばれます。
さぬき市内には人の頭ぐらいの石を積み上げた横穴式石室とこの古墳のように巨石を積上げた古墳があります。
前者には寒川町大末古墳や造田諏訪神社古墳があり、遺体を埋葬する部屋(玄室)は2mから3mが多いです。
一方、後者は八剣古墳の他に寒川町中尾古墳、蓑神塚古墳があり、玄室は4mを越えるのが一般的です。
土器から見るとこの2つのタイプの時代はほぼ同じであることから、同じ頃に巨石を使った大きな横穴式石室と手ごろな石材を使った小さな横穴式石室があったことになります。もちろん数は大きな横穴式石室の方が少ないので、こうした違いは権力、家格差なのでしょう。
古墳の造られた時期は7世紀の初め頃と考えられます。古墳の造られて場所は丘陵斜面ですが、この時代はこのような場所に古墳が造られる傾向があります。
谷から山を登った山の頂部にあります。草木ではっきりとは分かりませんが、古墳には一面石で覆われています。
この古墳はすべて石を積上げて造った積石塚と考えられています。同じ積石塚は山を挟んだ北側の鵜の部山古墳があります。東かがわ市には積石塚はありませんので、鵜の部山古墳とともに県内で最も東にある積石塚になります。
石に注目すると赤い色をした安山岩が多く観察できます。この石は古墳の周辺にたくさん散乱しており、石のたくさん採れる場所に積石塚は造られています。古墳の造られた時代は発掘調査が行なわれていないためにはっきりしませんが、今の所古墳時代前期の前半頃と考えられています。
この古墳で興味深いのは古墳の西側の谷にある古代の川東廃寺です。川東廃寺は川東古墳から300年も後に造られた寺ではありますが、ここに寺院を造るに至った理由に川東古墳の存在を推理するのも面白いと思います。
山の尾根に築かれた前方後円墳です。全長約35mは丸井古墳、稲荷山古墳、奥3号墳、奥13・14号墳、鵜の部山古墳などとよく似た大きさです。
昭和37年の発掘調査では後円部から遺体を埋葬する施設が2つ見つかりました。一つは石を積み上げた竪穴式石室、もう一つは粘土で棺を被覆した粘土槨(ねんどかく)というものです。中からは中国の鏡やガラス玉、管玉が出土しており、時代は古墳時代の前期の前半頃と考えられています。
古枝古墳の発掘された頃はまだ奥3号墳も丸井古墳も見つかっていない頃で、古墳時代の古い前方後円墳といえばこの古枝古墳でした。
古枝古墳墳丘測量図
大川地区の古墳の代表は何と言っても富田茶臼山古墳です。なぜ大川地区に富田茶臼山古墳が造られたのか。
地理的に見ると少し前の時代に前方後円墳の沢山造られた津田地区と山を挟んで南北にあるという点、
高松平野から長尾平野に続く内陸の東西に続く平野の最も東に大川地区が位置するという点、
特に富田茶臼山古墳はその大川地区でも東の平野の東端であるということを大きな要因と考えられます。
また、富田茶臼山古墳の北側には南海道という幹線道路が飛鳥時代から奈良時代にかけて造られました。もしかしたら富田茶臼山古墳の時代にはその原型、いわば古南海道のようなものがあったのかも知れません。
交通路との関係で見れば、大内側からの入口ということになり、古墳時代当時の玄関口造られたモニュメントであったのかもしれません。
富田茶臼山古墳の他にも巨石を使用した八剣古墳、古墳時代前期の古式古墳である古枝古墳、川東古墳があります。
中期では寒川町と境を接する場所に大井七つ塚古墳があり、
後期に至っては平砕古墳、市の瀬古墳群などで横穴式石室を見学することができます。
また、今は土の中に埋められていますが、火山の白粉石を使って箱式石棺という遺体埋葬の部屋をつくったかまぶた山古墳、北地古墳もこの地域ならではの古墳といえるでしょう。
番号 | 遺跡名 | 種別 | 時代 | 特徴 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 吉金窯跡 | 窯跡 | 江戸 | 富田焼窯跡 | 県指定史跡 |
2 | 吉金1号墳 | 古墳 | 古墳 | 直径約20m | 盗掘 |
3 | 吉金2号墳 | 古墳 | 古墳 | 直径約12m | 盗掘 |
4 | 吉金3号墳 | 古墳 | 古墳 | 8m×4m | 墓地 |
5 | 平砕1号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 羨道部破壊 |
6 | 平砕2号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 玄室一部残存 |
7 | 平砕3号墳 | 古墳 | 古墳 | 提杯出土 | |
8 | 大井城跡 | 城跡 | 中世 | ||
9 | 落合古墳 | 古墳 | 古墳 | 2基消滅 | |
10 | 大井遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 土壙、石棺等 | 消滅 |
11 | 古枝西遺跡 | 古墳 | 古墳 | 土壙、石棺等 | 消滅 |
12 | 大井七つ塚古墳群 | 古墳 | 古墳 | 初期群集墳 | 8基 |
13 | 古枝古墳 | 古墳 | 古墳 | 前方後円墳 | 町史跡 |
14 | 室町遺跡 | 集落跡 | 弥生 | ピット、溝等 | |
15 | 古枝6号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 台状墓5基 | 消滅 |
16 | 古枝7号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 箱式石棺 | 消滅 |
17 | 古枝8号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 箱式石棺1 | 消滅 |
18 | 古枝9号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 箱式石棺1 | 消滅 |
19 | 古枝10号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 土壙1 | 消滅 |
20 | 古枝11号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 土壙8 | 消滅 |
21 | 古枝12号遺跡 | 古墳 | 古墳 | 高杯出土地 | 消滅 |
22 | 古枝15号遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 土壙1 | 消滅 |
23 | 黒岩古墳 | 古墳 | 古墳 | 石蓋土壙 | |
24 | 富田神社古墳 | 古墳 | 古墳 | 墳丘完存 | |
25 | 雨滝城跡 | 城跡 | 中世 | 安富氏居城 | |
26 | 雨滝山山麓遺跡 | 散布地 | 旧石器 | 尖頭器 | |
27 | 森清古墳 | 古墳 | 古墳 | 竪穴式石室 | |
28 | 古墳 | 古墳 | 円墳 | ||
29 | 時友骨臓器出土地 | 墳墓 | 平安 | ||
30 | 宮町古墳群 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室等 | |
31 | 柴谷古墳群 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室群 | 消滅 |
32 | 時友弥生墳墓群 | 古墳 | 古墳 | 箱式石棺等 | |
33 | かまぶた山古墳 | 古墳 | 古墳 | 箱式石棺 | |
34 | かまぶた山東古墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | |
35 | 六車城跡 | 城跡 | 中世 | 土師器等出土 | 昭和49年調査 |
36 | 谷経塚 | 経塚 | 平安 | 銅製経筒出土 | |
37 | 川東廃寺 | 寺跡 | 不明 | ||
38 | 了地坊遺跡 | 集落跡 | 弥生〜江戸 | 溝等検出 | 昭和63年調査 |
39 | 下り松廃寺 | 寺跡 | 奈良〜平安 | 古瓦出土 | |
40 | 千町遺跡 | 集落跡 | 弥生〜中世 | 掘立柱建物等 | 昭和63年以降調査 |
41 | 寺田大角遺跡 | 集落跡 | 弥生 | 弥生土器 | |
42 | 田辺遺跡 | 集落跡 | 弥生〜古墳 | 石斧等出土 | |
43 | 平尾古墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 石室露出 |
44 | 平尾遺跡 | 散布地 | 旧石器 | 尖頭器出土 | |
45 | 中央通遺跡 | 集落跡 | 弥生〜古墳 | 土師器等出土 | |
46 | 羽鹿遺跡 | 包蔵地 | 古墳 | 須恵器等出土 | |
47 | 富田茶臼山古墳 | 古墳 | 古墳 | 前方後円墳 | 全長139m |
48 | 石仏遺跡 | 包蔵地 | 古墳 | 土師器出土 | |
49 | 一の瀬1号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 完存 |
50 | 一の瀬2号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 玄室残存 |
51 | 一の瀬3号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 敷石散乱 |
52 | 一の瀬4号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 盗掘 |
53 | 一の瀬5号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 奥壁基底石残存 |
54 | 一の瀬6号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 巨石散乱 |
55 | 一の瀬7号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 塊石多数散乱 |
56 | 一の瀬8号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 巨石散乱 |
57 | 一の瀬9号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 玄室一部残存 |
58 | 一の瀬10号墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 巨石散乱 |
59 | 横井窯跡 | 窯跡 | 江戸 | 斉藤焼窯 | |
60 | 筒井窯跡群 | 窯跡 | 江戸 | 昭和47年調査 | |
61 | 川東古墳 | 古墳 | 古墳 | 前方後円墳 | 積石塚 |
62 | 塔野古墳 | 古墳 | 古墳 | 玉類、鏡出土 | 消滅 |
63 | 北地古墳 | 古墳 | 古墳 | 切石の箱式石棺 | |
64 | 釜石古墳 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 巨石群露出 |
65 | 星越遺跡 | 包蔵地 | 弥生 | 石斧出土 | |
66 | 赤畑古墳 | 古墳 | 古墳 | 円墳、須恵器 | |
67 | 八剣古墳群 | 古墳 | 古墳 | 横穴式石室 | 3基 |
68 | 三仏寺跡 | 寺跡 | 不明 | ||
69 | 四福寺跡 | 寺跡 | 平安 | ||
70 | 王子遺跡 | 墳墓 | 弥生 | 壺棺出土 | |
71 | 大槲城跡 | 城跡 | 中世 | 長宗我部陣営跡 | |
72 | 立割遺跡 | 包蔵地 | 弥生 | 弥生土器出土 | |
73 | 寺尾廃寺 | 寺跡 | 中世 | 土師器散布 | 仏像出土 |
74 | 金剛寺跡 | 寺跡 | 不明 |