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日時 平成19年3月3日(土)

さぬき市古墳勉強会第5回見学会

造田・志度地区の古墳

見学地


緑ヶ丘古墳

緑ヶ丘古墳


緑ヶ丘古墳

陰浦古墳とともにさぬき市内の西端となる古墳ですが、この地区がさぬき市の前身の旧大川郡になったのは昭和30年代です。大川郡は奈良時代頃から続く寒川郡と大内郡が一つになったものですが、奈良時代以来の郡で言えば緑ヶ丘古墳のある場所は旧三木郡になります。
 緑ヶ丘古墳は6世紀の後半に造られた古墳で、山裾の傾斜地に4基ありました。現在見ることのできるのは2号墳と4号墳です。
 2号墳は昭和50年夏に発掘調査され、須恵器、金環・銀環・銅環、ガラス玉、鉄製品などが出土しました。今天井の石は抜き取られていますが、本来は天井石があってその上に盛土をした横穴式石室の古墳でした。
 この古墳で面白いのは石材です。長尾町史など今までの記録には花崗岩を使って石室を組み立てていると書かれていますが、どうも石材は安山岩のようです。花崗岩はどの山でも採れますが、安山岩は限られた場所にしかありません。同じような石材が近くの山で見つかれば、石材を運んだ距離が分かり、古墳作りの労力の程が判明するでしょう。
 4号墳は内部がほとんど埋められており、詳しいことは不明です。  

緑ケ丘古墳出土須恵器

緑ケ丘古墳出土須恵器

緑ケ丘古墳副装品

緑ケ丘古墳副装品


陰浦古墳

陰浦1号墳出土長頸壺

陰浦1号墳出土長頸壺

 緑ヶ丘古墳の西にあります。この古墳は昭和54年に発掘調査されました。この古墳からは長い頚のついた壷=長頚壷(ちょうけいつぼ)という須恵器が出土しています。このような形の須恵器は7世紀後半に造られたと考えられています。
7世紀後半といえば天智天皇、天武天皇の時代で日本の国が法律や官僚制度など様々な点で急激に改革されていった時代でした。全国的に耕地が整備され条里制という土地区画が出来上がってきたのもこの時代です。
緑ヶ丘古墳で少し触れましたが、古代の郡が形づくられたのもこの時代と言われており、もしかしたらこの陰浦古墳が造られた頃に寒川郡と三木郡が出来上がっていたかも知れません。
時代は古墳時代から飛鳥・奈良時代に移り変わろうとしている頃で、さぬき市内でも最後に造られた古墳の一つがこの陰浦古墳といえます。

白羽古墳

  白羽地区は谷状に深く入り込んだ地区でその奥に古墳が点在します。今のところ4基の古墳が知られています。
 白羽2号墳は尾根上にあります。非常にきれいな円墳で周囲も開発されてなく見事です。南向きに横穴式石室が開口しています。少し入口が小さく中に入りにくいですが、中の石室の様子も見事です。比較的小さな石を使用しているのが特徴です。
この古墳で大事なのは袖部の構造です。古墳の入口から羨道(せんどう)を通って遺体を安置していた玄室(げんしつ)に至りますが、その羨道と玄室の境に袖石があります。一般的に袖石は大きな石を縦に置くのですが、この白羽2号墳は小さな石を他の石積の箇所と同じように積んで袖を造っているのです。このような石室は横穴式石室でも古い特徴です。
さぬき市内の横穴式石室のほとんどは6世紀後半以降に造られたものですが、白羽2号墳は少し古く、6世紀半ばぐらいになりそうです。
 今までに発掘をした記録はありません。   

横穴式石室の構造

横穴式石室の構造(大塚・小林「古墳時点」より)


諏訪山古墳

 造田乙井の諏訪山の上にあります。乙井は「お土居」が名前の由来として考えられますが、お土居は城や居館のことを指します。つまり城があったということですが、この諏訪山が乙井城跡と云われています。
今諏訪山の頂上は広い平坦地になっておりここに館などの建物が建っていたと想像されます。その平坦地の一番高い場所に諏訪山古墳はあります。
今、古墳の前には諏訪神社が建っており、古墳がご神体のような配置になっています。おそらく諏訪神社は古墳の存在がきっかけで造られたと推測できますが、想像を膨らますと、乙井城の一番高い場所に神社や古墳があって、いわば守り神のような存在ではなかったかと思います。
 諏訪山古墳では椀貸伝説という伝説があります。これは、日頃、祭りの時など器が足りなくなったらこの古墳にいけば貸してくれていたのが、ある時その器を壊してしまい、わびをしないので返したらもう貸してくれなくなったという伝説です。このような椀貸伝説は全国各地にあり、香川県で同じような古墳が高松市 久本古墳、旧大野原町 椀貸塚古墳などにあります。この椀貸伝説の背景にあるのは沢山の器が古墳から出たということで、おそらく諏訪山古墳からもかつてたくさんの須恵器が出土したと考えられます。

諏訪山古墳測量図

諏訪山古墳測量図

まとめ

 造田地区では古墳時代後期の横穴式石室を見てきました。白羽古墳や諏訪山古墳は発掘調査も石室の詳細な調査もされていません。現段階ではあまり注目されていませんが、これから調査していく中でこの地域の歴史を紐とく重要な古墳になってくると思います。
造田の地名は造(つく)られた田ですが、この地名は平安時代には登場します。つまり、平安時代以前から造田といわれていたと考えられ、わざわざ人工的に造ったということを強調している背景には大規模な耕地開発があったと想像されます。
造田を横切る今の鴨部川の流れは不自然であり、川の流路を人工的に変え、広く耕地に変えた大規模な事業が行なわれたのではないでしょうか。仮にその時代が古墳時代の終わりから飛鳥・奈良時代であれば、造田に点在する古墳はこうした開発に携わった有力者の墓かも知れません。
まだまだ想像めいたストーリーですが、この地区の歴史の解明は非常に興味深いものがあります。
 志度地区はさぬき市内の中で最も古墳の内容が十分に判明していません。古い記録には鴨部では埴輪が出土する古墳も記載されており、また、唯一ある程度の内容が把握されている成山古墳では鏡が出土しています。古墳時代前期の古墳で鏡は瀬戸内海歴史民俗資料館にあります。
鴨庄の鴨部川の河口付近には津田町の岩崎山古墳の立地に似たような尾根もあり、現段階では志度地区に古墳は少ないのではなく、判明していないというのが現状でしょう。  

造田・志度地区古墳の分布


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