高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米庫を建てた。その一つがここにあって、約5,600㎡の敷地の周囲には竹薮、その外に堀が巡らされ、9mに27mの蔵が3棟と年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に15,000俵の米が収納され賑わった。 志度村新町・平賀家は、源内の曽祖父にあたる喜左衛門良盛が、明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命ぜられて以来世襲してきた。
 平賀源内は父茂左衛門良房の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問をめざして退役したため、平賀家四代九十八年間のお蔵番に終わりを告げた。     
 この石灯篭は、嘉永4年(1851年)津田村大庄屋の上野氏と志度村庄屋の岡田氏が、お蔵の用心のため建てた
ものである。上野、岡田両家とも平賀家の親戚であった。  





  新町自然石灯篭
    (含 石鉄大権現灯籠)

             (市・有形民族文化財)
        
  安山岩の自然石で作られた燈籠で、総高320cm、火袋は火口の無い四方から円窓だけ開けたものだが、その上に乗る笠は長い部分の直径が280cmという巨大なもので、飾りは無く簡素に豪快に作ってあって、一名お化け燈籠と呼ばれている。志度寺への遍路道である志度新町珠橋西側道路沿いにある。この灯籠は、志度間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の浜辺から玉浦川の川口にかけて繋留する漁船の道しるべのため、もとや醤油初代当主小倉嘉平が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士・田山助造のすすめによって、安政4年(1857年)に建立したものである。
 石鉄大権現灯籠
(いしづちだいごんげんとうろう) 高さ280cm、笠の巾の広いところで120cmと上記のものより小振りだが、自然石の見事なものである。軸部の表面には「雲間山石鉄大権現」、北面には「嘉永五壬子天(1852年)八月吉祥日」と刻まれている。志度江の口元屋醤油の東道路沿いにあって、小倉家の建立である。
新町自然石灯籠 石鉄大権現灯籠





旅館いしや(国・登録文化財)

明治期の建築で、志度寺門前町の旧志度街道に北面して平入り、半間幅の下屋を主
屋から差し掛けて作り出した小屋根を設けている。2階は屋根傾斜も比較的ゆるい、低
い逗子をもった町屋造り。外装の腰部は簓子(ささらこ)下見板、上部は漆喰(しっくい)
塗り壁とし、連子格子(れんじこうし)を備える。2階は讃岐の漆喰彫刻の代表物といわ
れる「隅柱漆喰彫刻」や漆喰虫籠窓(むしこまど)が全体を引き締めている。軒裏や壁は
白漆喰塗籠(しろしっくいぬりごめ)仕上げである。
屋敷は短冊(たんざく)形の平面を有し、建物は「三」の字に並んで、両側に廊下を配し
「日」の字形をつくり、閑静な坪庭を持つ。







 一名を中津城または中州城ともいい、今は城と言う地名に成って居る。元の志度町役場のあった所である。
  全讃史城跡条に依ると、「志度城 多田和泉者居之、安富魔下也、亦曰和泉屋敷」とあり、諸国廃城考巻40 讃陽処々の城跡欄に「志度城跡 安富山城守盛長の出城と言う。多田和泉守と言う領主の屋敷、今に和泉屋敷と言う」とあり、更に、「讃岐国名勝図絵」には「安富山城守盛長の居城たり」とある。
  我が国の城は、鎌倉時代までは山岳・海・河など天然の要害地に拠る当場の城で良かったが、戦国時代になると、天険を利用した上に塹壕・檣壁など人工を加えた半永久的な城になり、戦乱の長引くに連れて、平地の居館にも塁を高くして濠を掘る様になった。ことに地方の主将は、大城塞を中心にして、領内各地に小城砦を造って部将にこれを守らせて、互いに連絡を取る様にした。安富氏も雨滝城を中心にして、付近の富田大井城・富田西村城・富田中城・石田城・国広城・鴨部中筋城・鶴羽城などを支配していた様で志度城も其の一つであり、出城と言うのはこの支城の事で、多田和泉守が此処にいたものである。「多田和泉守親平は、朝倉義景に従って織田信長と姉川に戦って破れ、志度へ落ちて来た」と同家の系図にある。
  城跡は、倒れ掛かった地蔵菩薩と、古びたお堂に這入った不動明王、天照大神の五角形の石柱、凝灰岩、豊島石の乱れた五輪の搭が、崩れ落ちて昔の夢を物語っている。

 昭和五十七年夏、志度町文化財保護協会では、五世紀に亘って志度を支配していた城跡を保存するため、墓石を整理、周囲をコンクリートで囲み、植樹を行って面目を一新した。








 讃岐路の源平合戦、九郎判官義経縁の十二本松である。三代物語に、「松ヶ崎十二本松志度にあり。十二本松に白鷺の群集ると見て、源氏の白旗なりとし、すなわち西へ走る。」と、また志度蔵書に「義経公、阿波勝浦より兵十二騎を引率してここに帷幕を張り、長策をめぐらす云々」と書かれ、一騎ごとに一本の松を植えたと伝えられているが定かではない。  寿永四年二月二十一日、屋島の戦いに敗れた平家の軍勢が志度浦に上陸、反撃の態勢を取ったが、追撃して来た九郎判官義経軍と、志度寺周辺から松ヶ崎にかけて繰り広げられた激闘にも破れ、幼帝安徳天皇を奉じ、平宗盛以下平家一族が、壇ノ浦の運命を知るや知らずや、志度浦を後に西国に落ちて行ったのである。







 天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の高祖妃白光から送られてきた面向不背の玉が、志度沖で竜神に奪われたので、この珠を取り返すため身分を隠して都から志度の浦を訪れ、純情可憐な海女と恋仲になり、一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は愛する淡海公の為、瀬戸の海に潜り竜神と戦い珠を取り返したが、竜神のため傷つき力尽きてこの島で命を果てたのである。海女が取り返した珠は、奈良の興福寺に奉納され、後年琵琶湖竹生島の宝巌寺に聖武天皇奉納の国宝として残っている。
 島上に弁才天が祀られてあるところから、弁天島とも呼ばれている。弁天社の裏に、
志度 海境 是より高島辰 享和元酉年八月十九日
小方 己ノ角見通し
このように刻まれた石柱は、海の境界石として珍しい。







 天野峠の手前、現在うどん「源内」へ入る南側に、蓮華の台に載った石地蔵とその左側に不動明王と、そして六体の地蔵尊が立っている。不動さんはこの峠で災難にかかって果てた人の魔除けの仏さんだろうし、六地蔵はもと火葬場の入り口に有ったものだろう。そしてその横の地蔵さんには次ぎの様な民話が残っている。
 志度の盆地がまだ淵や沼であった頃、この海女野一帯には漁師達が住み着いていた。そしてこの天野峠には悪い一と組の大狐が住み着いていて、路行く人を迷わせたり、女になったり、高坊主に化けたりして土地の人々から恐れられていた。
 ある日この峠で部落の若者が、偶然にも昼寝をしていた母親狐を見つけた。乳房を求めていた二匹の子狐はすぐ穴の中に潜り込み難を逃れたが、親狐は若者の為に生け捕りにされた。ぴんぴん暴れていた親狐は,日頃の敵討ちとばかりに四つ足を括られ、若者は鼻歌を歌いながら例のお地蔵さんの前に遣ってきた。ふと突然一人の坊さんが現れた。そして若者に向って「可愛想だから離して遣りなさい。子供が乳を欲しがっているではないか.殺生はしなさるな」と力一杯諭した。若者は嫌々ながら縄をも解くと母狐は、張り詰めた乳房から乳を零しながら、何度も後を振り向き、坊さんにお礼を言いたげに、子狐のいる穴へ戻っていったという。この坊さんこそ地蔵尊の化身であったと言われる。
 それ以来天野峠には狐が出る事は無かった。此れは命助けをしてくれた坊さんへの改心の誓いだったのかも知れない。里人はこんな話をして居る。「母親の乳が出なくなるとこのお地蔵さんにお参りすると忽ちご利益があります。村の人はこのお地蔵さんを『子育て地蔵』として信仰しています」と。