ちょ う ふ く じ 

 千手山総持王院と号し、真言宗善通寺派に属す。讃岐三十三観音霊場第四番の霊場である。本尊は千手観音、脇士は不動明王と毘沙門天でともに弘法大師の作と伝えられる。
 天長元年(824)弘法大師が勅命により、当時石田にあった極楽寺を鴨部東山に移転し、その南側に来覚寺を建立し、北側に上野山から峰寺を移転して長福寺と号し、この三ヶ寺の総鎮守として志太張神社を勧請した。この三ヶ寺は東讃僧徒の学問所である談義所であるとともに、歴朝の勅願所として栄えた。その後、極楽寺は兵火にかかり焼失したので、延元元年(1339)長尾に移転し、来覚寺も早く廃絶した。長福寺は明和8年(1771)京都大覚寺の直末寺院に昇格し、嘉永7年(1854)元法洞院と称したが、総持王院の永兼を仰せ付けられ院家格となる。
長福寺鐘楼門 長福寺本堂

     

本堂   明治37年3月30日上棟。
鐘楼門 徳川時代初期建立。
薬師堂 昭和53年4月23日落慶。

 も く ぞ う   や く し にょ ら い   ざ ぞ う
(国・重要文化財)

 像の高さ144.5p、檜材一木造りの薬師如来坐像である。
 藤原時代後期の作である。
 この地鴨部郷が平安時代後期に、京都の石清水八幡宮の荘園で、田中坊領であったことから、この地に別宮として八幡神の分霊が祭られ、その別当寺として西光寺が建てられ、この像が本地堂というお堂に安置されていたものである。明治にはいり神仏分離令により、西光寺は廃寺となり、本尊薬師如来は長福寺に移されたのである。

  けんぽん  ちゃくしょく   そう ぎょう はち まん  てい りょう  の  ず
(市・有形文化財)

 絹地に色つきで描かれた画で、中央に僧の姿をした八幡大菩薩が剣を持ち、庭でかがり火をたきながら両側に家来を集めて軍議をこらしている図である。
 作者は土佐派の画家僧鶴州(かくしゅう)(1642-1730)で、高松藩主松平頼重公に招かれて、数々の絵を画いたが、そのうちこの画は頼重公の命で、高松石清尾八幡宮の御神影を模写したものである。頼重公はこれを家老の大久保守義に下賜、大久保家はこれを山田郡春日村の久米八幡宮へ寄進したが、明治にはいり返却されたのである。それを大久保家は鴨部長福寺へ寄進をしたので、現在明治6年(1873)9月吉日付けの「お預け契約書」が残っている。
 鶴州は仏生山法然寺にある「観世音功徳図」(国・重要文化財)の大作も画いている。

(市・有形文化財)
      (含 壺・古銭・木簡)

 明治37年(1904)澄晧住職代で本堂改築工事中、古備前焼の壺(高さ41.6p)が出土した。
 壺の中には一文銭と木簡が入っており、木簡には「文明12年(1480)3月19日敬白」「九貫文華厳坊賢秀御房」と墨書きされている。
 また古銭は、木簡記載には九貫文とあるが、約300枚程である。



れ ん じゅ う じ

 横超山金剛院と号し、浄土真宗本願寺派である。本尊は阿弥陀如来。
 開基は、寺記によれば室町時代の天文元年(1532)3月、足利義晴将軍の時、阿波の武士金子十郎光盛が12人の士を連れ、この地に落ちてきて発心し、光善と名のって庵を結ぶとある。
 元文4年(1739)開基以来の本堂を再建し、更に寛政4年(1792)5月18日11世住職浄正のとき再建されて今日に至る。昭和59年(1984)門信徒・篤志家により本堂修復・伽藍整備で面目を一新した。
 また境内2458uに異彩を放つ高さ5.5m、長さ73mの大石垣は、弘化4年(1847)第14世住職警学のとき、鴨部ワラヤの石工忠蔵によって築造されたものである。