場所 小田・天神山 祭神は、弘法大師、小野道風と共に書道三聖といわれ、太政大臣・文章博士になった菅原道真である。道真公は光孝天皇の仁和2年(886)から宇多天皇の寛平2年(890)までの四年間、讃岐の国司として民人たちと共に生き、善政をしいて尊敬を集め、名国司として追慕された。昌泰4年(901)藤原時平のざん言によって京の都から追われ、「東風(コチ)吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて 春をわするな」 の歌を残して九州・大宰府に流され、延喜3年(903)2月、栄光と苦渋に満ちた59年の生涯を閉じたのである。 創建は、延喜3年(903)9月、鴨部・極楽寺の明印法師が、道真公が景観を賞した天神山に祠を建てて祭ったと伝えられているが、延長元年(923)とも、天暦年間ともいわれるが、つまびらかではない。 小田天満宮とよばれ、小田の鎮守神として今日に及んでいる。 境内に春日社(祭神天児屋根尊)、境内に続いて聖観音をまつる長福寺小田別院(通常観音堂)と炎切不動明王がある。 |
弘海寺 小田・苫張 開基は弘海法順尼で、宝暦7年(1757)の創建である。 法順尼は元文3年(1738)苫張に生まれ、大願を発して12歳で得度し、四国霊場巡拝中いくたびか奇蹟に接し、遂に万人救済の法力を得た。郷里に帰ってきた法順尼のため苫張の里人が草庵を建てた。時に法順尼は16歳であった。法順尼を慕って病気平癒を祈願する人、豊漁を願う漁家の参拝客で、苫張の里は賑わったと伝えられる。法順尼は文化11年(1814)正月13日、77歳で没し、里人は十三日講をつとめて、長くその遺徳をしのんでいる。 境内にある延命地蔵尊は、四国霊場巡拝に法順尼に同行し、数々の法力に接した九州・宇佐部久志村の教念が、 宝暦5年(1755)10月14日建立したものである。 法順尼が使った錫杖や托鉢用の鉢は寺に保存されているが、加持用水の巾着型伊部焼の瓶は80年程前、さる人の手に渡っている。また周辺の丘や山に、安政5年(1858)、里人の植村八百蔵がこの寺から始まりこの寺を結願所とする 四国霊場八十八ケ所の石仏を祀った。この周辺が昭和45年頃から開発されるとき、ブルドーザーで破壊されたり、土に埋もれたり、或いは海に沈んだりしたけれど、里人の手によって集められ、今は18体は不足だが70体が寺の裏の丘にまつられている。 法順尼の墓は、近くの海辺にある。 |
小田薬師庵と相観上人 小田・大空 大空薬師庵は、もと東滝山医王寺といい、その歴史を明らかにする資料は残っていないが、天正11年(1583)、讃岐侵攻の土佐・長宗我部勢の兵火に炎上、その時の住職玄徳和尚が鉄の如意棒を持って長宗我部勢の陣屋に乗り込み、阿修羅の如く奮戦して壮烈な最期を遂げたと語り伝えられている。 医王寺の跡に、薬師庵が創建されたことについてもさだかではない。 本尊は薬師如来像、阿弥陀如来木像、弘法大師木像、脇佛は青面金剛である。 最近つまびらかになったのは、木食苦行の相観上人が江戸時代から明治にかけて、この庵の住職であったことである。相観上人は、播磨国赤穂栗原村山下某の三男で、10歳のとき得度、陸の苦行数十年、海上小舟で無言木食苦行19年、最後は宇多津町郷照寺で明治18年4月、80歳で入滅した。上人が自ら刻んだ仏像が、薬師庵とそのほかに多数残されている。 |