多和神社

随身門(ずいじんもん)と桜の馬場 7月31日夏越祭(なごし)の本殿

延喜式内讃岐国24社の一つで、開基は寛平年間洛陽八幡山より歓請したと言われているが審らかではない。
もと志度八幡宮として志度寺境内にあったものを、寛文年間に高松藩祖、松平頼重公が山王に移したと云う。
本殿祭神は、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)。
相殿6社の祭神は、大鞆和気命(おおともわけ)、帯仲津彦命(たらしなかつひこ)、天照大日売尊(あまてらすおおひめ)、息長帯姫命(おきながたらしひめ)、大雀尊(おおささぎ)、
倭武尊(やまとたける)である。
おもなる建造物は本殿、拝殿、中門、炊殿、連子塀、神馬舎、随身門、宝蔵、手水舎。

12の境内神社、27の境外末社がある。
神域面積21,000平方㍍に及び、老松と檜の社叢に心を洗われる。

 多和文庫

 明治5年以来23年間、金比羅宮禰宜(ねぎ)の職にあった、多和神社宮司・松岡調(みつぐ)翁が終生をかけて集めた古文書、古写本、書画、文献、考古学上の発掘物など、五千点余に及ぶ資料が収蔵されている。なかでも未完成となって居る「新撰讃岐風土記」二十数冊の他、江戸末期から死没までの毎日の出来事を克明に記した「年々日誌」など、当時の讃岐を知る貴重な資料も収められている。
 この文庫に収蔵されている天平勝宝6年(754年)と天平宝字2年(758年)の東大寺写経文書および讃岐国山田郡弘福寺領田図は、いずれも国の重要文化財に指定されている。
この文庫は別の名を香木舎(かきのや)文庫という。


 と う だ い じ  しゃ きょ う も ん じょ
(国・重要文化財)

天平勝宝6年(754)8月8日のもの  法華経100部800巻と、梵網経100部800巻を書写するため、写経生にこれを割り当てた時の記録であって、法華経百部筆者姓名記と呼んでいた。この経は大皇大后(聖武天皇の御母、藤原不比等の女、宮子姫)の菩提のため、このように書写が割り当てられたものであろう。

天平宝字2年(758)11月14日のもの  上記の写経割り当ての文書から4年後、東寺写経所で金剛般若経1200巻を書写し終わったことを、写経所から上級官庁へ報告した文書である。
天平勝宝6年8月8日のもの


   ぐ ふ く じ りょ う    さ ぬ き の く に や ま だ ご お り  で ん ず
弘福寺領讃岐国山田郡田図(国・重要文化財)

 現在の奈良県明日香村にあった弘福寺が高松市林町付近に持っていた寺領内の田畑、井戸などを詳細に描写した絵図。
 模写の時期は平安時代後半と推定される。現存する古絵図で最古の年紀、天平7年(735)が書き込まれており、当時の集落、耕地の様子が分るだけでなく、寺領の形態を示す最古の資料として貴重である。
 弘福寺(ぐふくじ)は別名川原寺(かわらでら)とも呼ばれ、7世紀末、飛鳥の地に建立された。讃岐国ほか多くの寺領を持つなど繁栄したが、9世紀以降衰え、11世紀には東寺(とうじ)の末寺となった。東寺長者による弘福寺所領の復興が試みられた際に、天平7年の原図をもとに本資料が制作されたと考えられている。


  ご こ ま つ て ん の う  し ん か ん  お ん しょう そ く    にょう ぼう  ほ う しょ
(県・有形文化財)

後小松天皇宸翰御消息  応永19年(1412)8月29日、後小松天皇は御年36歳で御子、称光天皇に位を譲られ、三種の神器をお渡しになったが、それより約1ヶ月前の7月に、璽(じ)(玉)の裹(つつみ)(包)換えをなさられようと、内蔵頭(くらのかみ)に、包の裂(きれ)(布)及びひもの緒組の色合寸法などを御指示になったもの。

後小松天皇宸翰女房奉書  上記の御消息により内蔵寮で調製を進めたが、8月中旬になってお尋ね申したいことができ、内蔵頭がこれを上奏したところ、天皇は8月21日付で、散し書の女房奉書の形で、ご返事を賜ったもの。
後小松天皇宸翰御消息