神社誌には久那斗神社。讃州府志には岐(ふなと)神社と書いている。多和神社の境外末社。
祭神は都岐多都久那登(ときたつくなと)之神。
地元では「お船戸さん」と呼んでいる。奈良時代には「フナドノカミ」と言われていたようである。
岐神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉国(よみのくに)から還って、筑前日向(ひゅうが)の橘小門(たちばなおど)で禊(みそぎ)をするとき投げ棄てた杖から化生した神で、幸神、塞の神(さいのかみ)、道祖神とも同じ神様である。
もともとこの神は村人を守るという民間信仰から村々に祀られるようになったらしく、ここでは海の神様として拝んでいる。例祭は以前は7月31日であったが、現在は7月31日前の日曜日に夏祭りを、10月第4土曜日曜日に秋祭りを行っている。かつては2隻の船に大漁幟を立て、神輿(みこし)を乗せて海に出るという祭りであったが、今は子供太鼓台が出て新町部落内を一周するようになっている。
多和神社境外末社。 祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)。大国主命の子。 一般に「えべっさん」と呼ぶ神様は、二種の起源を持っている。一つは神話のイザナギ・イザナミの神が高天原で国生みをしたときに、最初に生まれた「蛭子(ひるこ)」を「えびす」と考える説で、瀬戸内海地方に多く広まっている。 これに対し、日本海側では「事代主命」を「えびす」とするものが多い。「事代主命」は大国主命の子で、出雲を天照大神に譲るように父に勧めたと伝えられる神様である。 「蛭子」系も「事代主命」系も、ともに海と深い関わりを持ち、今では「商売繁盛」の神様とされているが、もともと「海上・漁業」の神様である。 その表記は「蛭子」「恵比寿」「恵比須」「戎」「夷」など様々な漢字が当てられている。 |
元屋醤油店から北へ入った小路に、町内では唯一つしかない「ふいごの神」を祀る金神さんがある。 祭神は金山彦命。岐阜県垂井町宮代にある南宮神社の末社であるが、勧請した時代はつまびらかでない。 藩政時代は東の金屋とこの江の口に多くの鋳物師、鍛冶職人が住み、盛んに金物を生産していたので、商売繁盛を祈願して建立したものだろう。 万延元年(1860)12月10日イギリス軍艦、文久3年(1863)3月23日アメリカ軍艦が志度湾に入港し、深い眠りの志度の里人を驚かした。高松藩は、いざ鎌倉に備え、志度の鋳物師に大砲、鉄砲を盛んに作らせた。そもそも志度の里は、鎌倉時代の藤原清房、その孫秀延、その子秀行につづく刀鍛治から始まり、江戸時代にかけて、しゃちほこ、鰐口、釣鐘、塩炊き釜、はては鍬の先にまで及ぶその技術と生産は遠近にとどろき、金物の里であるこの一帯は、金屋といわれた。 |
地元では「ぎおんさん」と呼ぶ。多和神社境外末社。 祭神は素戔鳴命(すさのうのみこと)。 祇園さんは昔コレラが流行した時、病気封じのため備前の国から勧請して祀ったという。 境内には稲荷神社の他、地神、荒神、白鳥、たちばな、水神、不動尊など多くの神々を寄せている。 |
多和神社境外末社。国道11号線北、JR志度駅より少し東、志度キリスト教会の西側にある。 祭神は若宮賣(わかみやめ)神。 境内には蛭子(えびす)神を別に祀っている。 もと城の地(田中601番地)に鎮座していたものを、大正14年ここに移転しのだが、老朽激しく平成18年地元氏子の寄金で本殿を新築する。 |
正式な名称は神藪神社と呼ぶ。多和神社境外末社。 祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)というが、女人衆の奉献灯篭(文政年間)があるので女神を合祀しているという人もいる。 大椋(むく)の木と立派な石の神垣があり、地区人の敬仰の神である。 |
神社誌には事平神社とある。多和神社境外末社。大橋を東へ渡った北側にある。 祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。 天野街道の拡張で神域が狭くなり、南向きの本殿の屋根廂の下に奉献鳥居(嘉永5年)が窮屈そうに押し込められていたが、平成12年大橋川の改修工事で更に狭くなり、東向きにして本殿、鳥居ともに新築された。 境内には、平成16年に掘り出された「大橋」石標とその説明板がある。 |
塩釜神社は塩業者が祀った神社で、多和神社の境外末社である。 祭神は「塩土翁(しおづちのおきな)」である。地元では塩釜大明神と呼んでいる。 塩屋塩田は生駒正俊が讃岐国領主であった元和元年に、今の三木町池戸に住んでいた松原玄雪がここで「河岸式入浜塩田」をつくったのが始まりという。明治4年には塩田面積3町8反7畝12歩(3.84㌶)、穴382、釜3ヵ所と記録にある。 明治21年が最も繁栄したようで反別が5町4反(5.36㌶)に増加しており、年6480貫であった。このような推移をたどった塩屋塩田も明治の終わりには絶えてしまった。 |