推古天皇の頃に創建され、天武天皇の時代に藤原不比等が堂宇を拡張し、持統天皇7年(692)に、行基菩薩が大伽藍を修築したと伝えられているが、現在の堂宇は、寛文10年(1670)高松藩祖松平頼重公が建立したものである。四国霊場86番の名刹である。本尊は十一面観世音菩薩で、脇士不動明王・毘沙門天と、絹本著色十一面観音像、絹本著色志度寺縁起図絵六幅、志度寺縁起等付属文書九巻は何れも国指定の重要文化財である。

  寿永4年(1185)2月、屋島の戦いに敗れた平家一族が、この志度寺周辺で繰広げた源氏との激闘にも敗れ、西国に落ち延びて行った哀しい遠いものがたりもある


(国・重要文化財)

 寛文10年(1670)12月20日上棟。高松藩初代藩主松平頼重公が建立。
 桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)5間、入母屋(いりもや)造、本瓦葺。県下の近世建立の仏堂としては唯一の七間堂で、前面には軒唐破風(のきからはふ)をつけた3間にわたる向拝(こうはい)を設け、その規模、容姿はともに群を抜いている。


(国・重要文化財) 

   志度寺山門は、世に三棟(みつむね)造りと云われる東大寺転害門(てがいもん)と同じ構造で、寛文建築の特徴を良く著している。円柱の本柱四本の前後にそれぞれ四本ずつの控柱があって、三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺で、本堂と同時期建立の木割りの太い八脚門である。

   天正11年(1583年)讃岐に進攻した土佐の長宗我部元親が、山門を潜ろうとした時急に馬が動かなくなった。不思議に思って元親が両脇の仁王像を見ると、「後光」がさしていたので部下に命じ、志度寺を焼く事を禁じ、恭しく寺仏に礼拝して古高松に引き上げたと伝えられる。

 も く ぞ う  こ ん ご う  り き し  りゅう ぞ う
木造金剛力士立像 2躯
(県・有形文化財)

 金剛力士は四天王とともに仏法を守護する目的で寺院の入口に位置する仁王門内に安置される。山門内の仁王像は、右に那羅延(ならえん)金剛(阿形)左に密迹(みつじゃく)金剛(吽形)の二体を奉祠しており、共に鎌倉時代運慶の作で、香川県指定の文化財である。
 両像共に桧材の寄木造り彫眼の像で、写実的に表現された大作で、まことに豪快である。像高は口を大きく開けた阿形(あぎょう)が304cmで、口を結んだ吽形(うんぎょう)は325cmである。
吽形 阿形

 え ん ま ど う            だ つ え ば ど う
(県・有形文化財)

 琰魔堂は、弥阿尼がいったん冥途に赴いたものの、琰魔大王の依頼で琰魔像を刻むため蘇生したという言い伝えをもつ堂である。
 桁行3間、梁間3間、向拝1間の本瓦葺宝形造(ほうぎょうづくり)である。垂木に反り増しがあり蟇股なども古式で、彫刻類はすべて極彩色で、本堂に通じる手法が用いられている。寺伝では寛文11年(1671)の建立といわれている。中には冠に十尊を飾った琰魔王像が安置されている。
 奪衣婆(だつえば)とは三途(さんず)の川のほとりにいて、亡者(もうじゃ)の着物を奪い取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという鬼婆のことである。奪衣婆堂は琰魔堂とほぼ同じ造りであるが、本堂より時代は降り18世紀中の建造物である。
琰魔堂 奪衣婆堂

   塔の高さ33㍍、塔屋の間口4.5㍍五層総檜造り、朱の色も鮮やかな木造五重の塔で、塔の中心の柱の真下に鎮瓶(ちんびん)、摩(かつま)、五宝、五薬、五香をはじめ、施主の願文、一般の般若心経の写経が仏のしきたりにならって納められている。少年時代から志度寺三十三代住職十河龍澄和尚にこよなく可愛がられ、励まされて世に出た東大阪市の竹野二郎氏が、報恩と仏法興隆のため、私財3億余円を寄進し、3年3ヶ月の歳月をかけて、昭和50年5月18日落慶したものである。
 五重の塔は七堂伽藍の一つで釈尊滅後、阿育王によりインドに建立された八塔に淵源している。

 海女の玉取りをテーマに七つの石を配し、中央の苔むす岩は海女が命を果てた真珠島、敷き詰めた白砂は渦巻く波で、淡海公と海女の物語りを画いた枯山水である。

  室町時代、百七十年間に及ぶ讃岐の守護・細川氏が造営寄進し水墨山水画を彷彿とさせる庭園で、滋賀県の秀隣寺、三重県の北畠神社と共に、日本で三つしかない曲水式庭園の一つである。

 入り口に立って、左方砂利の広場中央から左にかけて螺型の石組みが、志度寺本尊十一面観音頭上の十尊に当たり、池の島は志度寺縁起にちなむ竜蛇の形と、真珠島に似せられている。昭和37年、京都林泉協会会長で日本の造園大家・重森三玲氏の手に依って復元した。

  あ  ま   の  は か  ご り ん と う  ぐ ん
(市・史跡)

   天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の皇祖妃から送られた面向不背の珠が、志度沖で竜神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海に潜り竜神と戦い珠を取り返したが、竜神の為に傷付き真珠島で命を果てた。
 房前はのちに藤原家を継ぎ、大臣となった。ある日父より母である海女のことを聞かされ、行基を連れて志度を訪れ、志度寺の西北一丁あまりの所に千基の石塔を建立し、法華八講を修して亡き母の菩提を弔った。
 中央の大きな五輪塔が海女の墓と言われ、左右の円柱形の二基の石塔は内部を空洞にして経典を収める経塔である。

   毎年海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養が今もなお続けられている。また、謡曲「海士(アマ)」、浄瑠璃「大織冠」、歌舞伎「面光不背の玉」などで今に伝えられている。

 い こ ま  ち か ま さ  ぼ と う
(市・史跡)

 白色の角礫凝灰岩で作られた、総高2.78mの墓塔である。墓塔に刻まれた種字は風化が著しく消滅している。
 生駒親正は美濃国に生まれ、織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って戦功をたてた。天正15年(1587)赤穂6万石から讃岐17万石の領主となる。親正は地元郷士を重用して善政をしき、高松城・丸亀城を築いて、今日の高松の基礎をつくった。慶長8年(1603)2月13日、78歳で生涯を閉じた。
 生駒家は志度寺を崇敬し,寺領を寄進したり、定め書を下して当寺の興隆をはかる。三代正俊は慶長15年(1610)に、母永福院とともに、親正の菩提を弔うために、海女の墓の東方に五輪塔を建てた。高松の弘憲寺にも親正の墓がある。

   高松藩祖松平頼重公が若かりし頃、些細な事から三人の近習、甲賀八太夫、甲賀五左衛門、大西主膳、に切腹を命じ、若い桜を散らした。それから長い歳月が流れた。晩年の頼重公はこの事をふかく後悔し、阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩の三仏を作り、高松市宮脇町のお山御殿に安置し、朝な夕なに冥福を祈ったと言う。元禄15年(1702年)お山ご殿が取り除けになる時、当時の志度寺の住職同性が藩に願い出て、志度寺境内に移転した物である。

   寿永4年(1185年)2月19日、屋島の戦いで平家の強豪能登守教経の強弓に狙われた、九郎義経の身代わりとなって、源氏の四天王の一人佐藤嗣信が忠死した。嗣信の戦死を悲しんだ、九郎義経に召されて引導を渡したのが、当時の志度寺の住職覚阿上人である。引導を渡したお礼として、九郎義経から一の谷、ひよどり越えの合戦にも参加した名馬「大夫黒」と太刀一振が贈られ、その寄進状が志度寺に残されている。

   この霊塔は昭和6年5月、嗣信30代目の子孫である山形県の佐藤信古が、先祖か世話になったお礼と、覚阿上人追福のため建立したものである。名馬「大夫黒」は、飼育せられていた鴨部・極楽寺から抜け出して、嗣信の墓の側で死んでいたと言う物語もある。



(左)松風塚   (右)芳室文塚

   志度寺境内薬師堂の南側に二つの塚が有る。一つは、大阪俳人談林派俳諧の指導者椎本芳室の文塚、いま一つは、芳室の俳友であり、平賀源内先生を育てたスポンサー三千舎桃源の松風塚である。     

     椎本芳室が延享4年(1747年)3月4日84歳で没したが、没後、東讃の俳人が師を偲んで高松市西方町松岩寺に、「椎本芳室翁文塚」を建立し、毎年門弟達が追悼句会を開いていたが、文塚が何時の間にか姿を消し、高松市峰山墓地に捨てられているのを発見し、志度寺境内に移転したものである。

   松風塚は、天明6年(1786年)9月15日、三千舎桃源が71歳の時、自分の歯を壷に入れて埋め、その上に塚を建て、「松高し わが秋風の 聞き處」の一句を刻んだ、別名「落歯塚」と呼ぶ句碑である。歯を入れた壷の外蓋は、平賀源内先生の指導で源内焼を焼いていた名工脇田舜民の作である。二百数十年前、俳句で結ばれた親友の塚が、志度寺の境内で肩を並べて建てられているとは奇しきさだめである。                                  

    讃岐・丸亀藩の武芸指南役・堀口源太左衛門は、新しく仕官した文武両道に優れた田宮源八に、藩士の信望が集って来るのを妬み、寛永3年(1626年)3月18日、国府八幡宮の境内に誘き寄せ騙し討ちにした。遺子坊太郎に堀内の手が伸び掛けた事を知った乳母お辻は、ひそかに坊太郎を連れて志度寺に逃れ、金毘羅大権現に坊太郎の仇討ち成就を祈願、火の物を絶って水垢離をとり、満願の日に自害して果てた縁の井戸である。成人した坊太郎は江戸に出て、柳生道場きっての剣客となり、18歳になるや丸亀に帰り、藩主の許可を受け、寛永19年(1642年)3月19日、山北八幡宮で本懐を遂げた。その後、坊太郎は仏門に入り、父とお辻の冥福を祈りつつ22歳でこの世を去った。この物語は、浄瑠璃「花上野誉石碑(はなのうえののほまれのいしぶみ) 志度寺の段」に上演され、今に伝えられている。

(国・重要文化財)

本尊十一面観音立像は、檜材(ひのきざい)の一木造りで、像高は1.46mである。十一面観音は頭上に十一面の仏頭をいただき、衆生の十一の苦しみを転じて仏果を得させる、広大な功徳を形にあらわした尊像である。頭上の化仏の正面の三面は慈悲の相、左方の三面は憤怒相、右方の三面は白牙上出の相、後方の一面は大笑の相で、頂上の一面は仏(如来)面をあらわしている。平安時代の前期末すなわち貞観時代後期の、地方仏師の作であると思われる。
 脇侍の一は不動明王立像で、檜材の一木造り、像高78㎝である。もう一方は毘沙門天で、檜材一木造りの立像、左手の塔や足下の夜叉まで共木である。像高79㎝。両像とも一作であるが本尊よりはやや新しく、藤原時代に両像を作り本尊に脇侍として添えたものであろう。


  もく ぞう   にょ らい ぎょう   ざ ぞう
(県・有形文化財)

欅材(けやきざい)の一木作り漆箔の坐像である。真言密教の根本仏である大日如来像と伝えられる。
造像は平安時代中期、10世紀末ころと考えられるが、残念ながら頭部が室町時代以降に別材で補足されたと思われる。いかなる理由で、頭部が改変されたかは今では知る由もないが、火災・兵火など時代の経過とともにこのような改変はまま見られることである。

けん ぽん  ちゃく しょく  じゅう いち めん  かん のん ぞう
(国・重要文化財)

 手首に数珠をかけた右手を与願印(よがんいん)に構え、左手に蓮華を挿した水瓶を持って踏割蓮華座(ふみわりれんげざ)に立つ十一面観音像で、大画面いっぱいに人の背丈ほどの大きさで描かれている。
 肉身を均一な太さの朱線で描くが、衣文(えもん)は肥痩(ひそう)のある墨線で流れるように描き、華やかな文様で装飾した裳も含めて、全体に白色を基調とした彩色でまとめている。火焔をめぐらした頭光(ずこう)、大きく描かれた頭上の変化面(へんげめん)、身体に対して長くあらわされる手、鋭く伸びた爪、豊かな蕊(しべ)の蓮華など、本画像には一見して宋画の強い影響がうかがえるが、彩色が濃淡の変化にやや深みを欠くことなどから、宋画の特徴を意識しながら制作された鎌倉時代の作と考えられている。
 本画像の箱には、志度寺縁起絵と同様に初代高松藩主松平頼重の娘糸姫が修理した旨を伝える寛永年間(1661-1672)の銘文がある。

  けん ぽん  ちゃく しょく    し ど じ     え ん ぎ   え  ず
 (国・重要文化財)
  (含紙本墨書志度寺縁起等付属文書九巻)

志度寺の本尊十一面観音の由来と当寺建立・再興のいきさつなど縁起文7巻を絵画化した縁起絵で、絵解きしたものである。
絵図(1) 御衣木之縁起(みそぎのえんぎ)
絵図(2) 讃州志度道場縁起・一
絵図(3) 讃州志度道場縁起・二
絵図(4) 白杖童子縁起(しろつえどうじえんぎ)、当願暮当之縁起(とうがんぼとうのえんぎ)
絵図(5) 松竹童子縁起(まつたけどうじえんぎ)
絵図(6) 阿一蘇生之縁起(あいちそせいのえんぎ)
縁起文7巻には、他に「千歳童子蘇生記(せんざいどうじそせいき)」があり、絵図も7巻あったと考えられるが、江戸初期頃までに失われて今は6巻である。
絵の大きさはほぼ縦167㎝前後、横125㎝前後である。各幅とも広大な空間を巧みに折り込んだ一大鳥瞰図(ちょうかんず)である。各幅に配された説話の各場面は、第1幅では上から下へ、第2幅では下から上へと蛇行の繰り返しでたどることができるように、全体として構想されており、本縁起図が絵解きに用いられたことをうかがわせる。
制作年代は、各幅に異なった表現が認められるため全幅同期同作とは考えがたいが、修復前の軸金具の銘文によって康永2年(1343)が全幅の下限といえる。また縁起文「阿一蘇生之縁起」の奥書に記された「文保(ぶんぽう)元年(1317)」までに全ての縁起文が制作されたとすれば、これら縁起文をかなり忠実に絵画化した本縁起絵についても、文保〜康永年間(1317〜44)の頃に、当寺の勧進活動の一環として次々に制作されたといえよう。
讃州志度道場縁起・一

(市・有形文化財)

 本十一面観音立像は、浪の打ち寄せる岩上に、右手を垂れて与願印とし、左手は胸前で蓮花をさした水瓶を持って踏割蓮華台上に立った十一面観音である。
 紺地に肉身・衣とも金泥、垂髪部・裳は群青で彩色し、細い墨線で肉身線・衣文線を描いている。瓔珞(ようらく)や面相部も細密であり、丁寧できわめて美作であるといえる。
 志度寺には宋代仏画の影響を強く受けて描かれた国指定重要文化財の十一面観音像が残されていて、その図像などが相似ており、本図が、こうした優れた作例を手本として描かれたことが想像される。
 岩坐や打ち寄せる浪の表現、あるいは細密な描写法から、制作時期は南北朝時代まで遡りうる逸品である。
 (実物は着色ですが、左図は白黒写真を使いました。)




志度寺境内配置図

①志度寺本堂

②志度寺仁王門

③志度寺琰魔堂及び奪衣婆堂

④木造十一面観音菩薩両脇士立像

⑤木造如来形坐像

⑥木造金剛力士立像

⑦生駒親正墓塔

⑧海女の墓五輪塔群

⑨絹本著色十一面観音像

⑩絹本著色志度寺縁起絵図

⑪ 絹本著色十一面観音立像