と う り ん じ

 恵遠山放光院と号し、浄土宗である。
 高松藩祖松平頼重公は、寛文8年(1668)6月竹井蔡庵に命じて菩提寺として、香川郡百合(もまい)郷に法然寺を建てさせ、寛文10年正月26日三百石の寺領を寄進して、落慶法要を行なったが、そのとき頼重の下した「仏生山条目」の第23条に「国清寺・栄国寺・東林寺・真福寺の四か寺は、頼重中興にて建立せしむるの間、住持たるものは報恩のため各登山致し、法事相勤べし」云々と、この時既に当寺ら四か寺を法然寺の助勤の寺として、建立の計画を定めていた事を述べている。当時新寺を建立する事は、元和元年7月に幕府が下した、浄土宗本山への35か条の諸法度によって、「大小の新寺私に建立致すべからざる事」と禁じられていたので、頼重は其の頃廃寺と成っていた岡の御堂と呼ぶ寺を再興と言う事にして、暢蓮社演誉知廓上人を開祖として、延宝4年(1676)に恵遠山放光院東林寺と号し、法然寺の下寺とし寺領五十石を寄進し、建立させたのであった。
 創建当初の本堂・付属建物は、再三の火災や台風で、旧記などもすべてうしなっていた。本尊阿弥陀如来を安置した庫裡だけの状態から、檀家全員の協力で、境内整備の上、昭和59年3月31日本堂再建落慶法要を奉修した。

露塚
  「露とちるこの身は草に置ねども」の辞世の句を残して、寛政6年(1794年)8月、79歳でこの世を去った三千舎桃源(みちのや とうげん)は、志度が生んだ先覚者、平賀源内の俳諧の師である と共に、長崎留学などに力を貸し、陰になり、日向となってこの先覚者を育てた志度の豪商、宇治屋渡辺家の六代目である。宝暦11年(1761年)郷士となり、志度の政所を勤め、早くから甘泉庵芳室の門に入り俳諧を学び、和歌・漢詩にもすぐれ、花月斉珊楽とも交わり、三千舎と号しその名を遠近に知られた。
  この塚の右側には、「置はちる物とおもひし露の身をさそうあらしの松の下かぜ」の歌が刻まれて 露塚といい、菩提寺である東林寺の門前にある。

 





 志度1187番地の4にある。
 浄土真宗本願寺派である。本尊は阿弥陀如来、脇士は親鸞上人・蓮如上人。
 大正14年(1925)1月6日、真宗本願寺派志度説教場として広野法忍の開基である。