れ い し じ

 真言宗高野山派、もと高野山金剛峰寺の末寺、本尊は、十一面観世音菩薩である。
 開基は、いろいろと説があり詳らかではないが、弘仁年間(810〜823)弘法大師が師である大学博士岡田牛養の追福のため創建せられたと伝えられる。東林山遍昭光院または、日内山大岡田寺と呼ばれていたが、天正11年(1583)4月、讃岐進攻の土佐・長宗我部勢の兵火に焼けたが、明暦3年、志度の僧宥春が釈迦堂を再興し、続いて山城の僧恵忍が来錫して、高松藩祖松平頼重公の助けを受け、寛文年間に堂宇を再建し、延宝4年(1676)、二代藩主頼常公が、東林山霊芝寺とあらため、翌年本堂を建立し、同8年には寺領百石を寄進した。くだって享和2年(1802)には八代藩主頼儀(よりのり)公が檀主となって本堂を再建した。かくて寺運を松平藩にかけて興隆し、什宝旧記も多かったが、
文政11年(1828)と天保14年(1843)の2回にわたる火災でことごとく焼失した。
 明治2年(1869)東林山を日内山と改め、当寺十五代宜弘の十有余年の苦心によって再建整備された。しかしそれも昭和8年の放火により、本堂ほか総ての堂宇は消失したが、十一面観世音菩薩像だけが災厄を免れた。現在の堂宇は昭和13年(1938)の再興である。
 高松藩主二代頼常公、九代藩主頼恕(よりひろ)公が眠る菩提寺として知られている
 梵鐘は享保3年(1718)松平頼豊公(三代)が金蕩をもって京都の鋳物師に鋳造させたもので、音響の清雅なること近国無比という名鐘である。

霊芝寺山門

山門は二層となっており、津田雨滝城の落城により、裏門を移築したものと伝えられる。その二階に祀られている武将四天王が、その頃を語り掛けそうである。
なお移築の件は、昭和55年香川県文化財専門委員の調査で確認された。

まつだいらよりつね     よりひろ 
松平頼常公および頼恕公の墓

 高松藩主歴代の墓は仏生山法然寺にありますが、頼常公・頼恕公はともに水戸の出で、遺言によりここ霊芝寺に儒教の方法で葬られました。
 二代藩主頼常公は水戸光圀の子で、22歳で高松藩主となり在職31年。藩の財政を整え学問を盛んにし善政をしいた。墓石には「故四位少将南嶺源節公(みなもとのせつこう)之墓」と刻まれています。
 九代藩主頼恕(よりひろ)公は水戸九代藩主水戸治紀(はるのり)の次男で、在職22年、歴代藩主きっての名君とうたわれ、讃岐における天保の改革を行った方です。東讃での砂糖作りの奨励、坂出・屋島・志度などの塩田の開発に力を注がれ、津田川の水を猿橋川に導入した久米川伝右衛門の義侠をたたえたりしましたが、45歳の若さで亡くなっています。墓石には「正四位下中将南溟源愨公(かくこう)之墓」と刻まれています。

 
松平頼常公の墓 松平頼恕公の墓

霊芝寺配置図


 ひ う ち さ ん お く の い ん 

日内山霊芝寺の奥之院である。
建立は定かでないが、本尊は立派な弘法大師像を祀る。

ミニ八十八ヶ所石仏

日内山の中腹に、松平家墓所を中心に半円を描くように、ミニ八十八ヶ所の石仏が安置されている。年代は明治の初〜中期頃と思われる。寄進の名のない石仏は松平家寄進のもの、他は近在の有志の奉献によるものと思う。
 ここ日内山霊場は清浄な所だけに、霊気が漂い、往昔は魔物が出没したと言われる。その魔物を伏せるため、大きな岩に梵字を刻んだり、奥之院参道へ六地蔵や不動明王を祀り、その功徳によって魔物を追い払ったと言う。

 



延暦10年(791)12月、寒川郡岡田村の人岡田臣牛養ら二十烟(戸)の人々に、岡田臣の姓を賜り、牛養は大学の博士に任ぜられた。 今寒川郡の地に岡田村の地名が残ってはいないが、志度の東末に、岡田神社があり、岡田氏一族の氏神であったが、後旧末村の鎮守となったと伝えている。今は神社境内326.7平方㍍であるが、明治5年の「各村道路神社書出帳」に依ると、字岡田352番地、岡田神社境内20㌃(社建反別一畝歩、林反別一反九畝歩、此木数松百十本、但し尺周りより二尺周りまで)とある。

弘法大師は十八歳のとき大学寮に入って、直講浄酒浄成に従って毛詩・左伝・尚書を読み、左氏・春秋を岡田博士に問うたと伝えられているが、この岡田博士は、延暦10年(791)に大学博士に任ぜられたこの岡田牛養であろう。即ち牛養は弘法大師の先生であったのである。

岡田屋敷跡

 末地区は往古「岡田村」と呼び、今なお岡田の免名、岡田屋敷跡、岡田明神、大岡田寺(霊芝寺の前身)など、岡田の名残を留めている。
 平成3年圃場整備事業が行われ、岡田屋敷跡が消滅し、圃地となったので平成10年ここに碑が建てられた。

  
 す え い ち ご う か ま あ と
(市・史跡)

 末地区で須恵器が盛んに焼かれたのは7世紀から8世紀にかけてであった。昭和40年頃には4基の須恵器窯の分布が確認されていた。昭和43年志度町教育委員会が末一号窯の発掘調査を実施した。
 一号窯は全長8.2m、最大幅2mあり、半地下式の無段登り窯である。灰原からの遺物は、杯・高杯・盤・皿・鉢・台付長頸壺・すり鉢・獣足等多数出土した。