ひ も り や ま
さぬき市鴨庄に標高200mの日盛山がある。春には10ha余りにわたって5000本桜が咲き乱れる。これは地元池田幸太郎氏が終戦前後にかけてモンゴルの奥地に消えた3人の子供の冥福を祈って昭和43年〜47年にかけて植樹した。 |
||
日盛山五千本桜 |
造田が生んだ小野派一刀流、一左新流目録皆伝、二刀流剣道教士、谷村弥三郎の遺業をしのんで、門人たちが昭和44年に顕彰碑を建立したものである。 |
修養団日盛山道場内に、第二次世界大戦に、北辺・南方の異国に散って帰らざる遺骨の霊をまつる毘沙門天、 交通事故で街頭に散った人々をまつる不動明王、そして尼無谷を見下ろす峠に文政11年建立の、この世に生まれなかった水子に霊をまつった尼無し地蔵尊を移転して、三尊仏をまつり、昭和52年4月8日に開眼供養が行われた。 |
日盛山頂上から100m程下山すると、岩獄に出羽の泉がある。寛延・宝暦の時代、この周辺一帯の手がん谷、死人谷(しびとたに)、尼無し谷、赤子池(あかごいけ)、蜘蛛手池(くもでいけ)と気味の悪い場所に、妖怪が出没し村人たちに恐れられていた。そんなころ奥州出羽の浪人がこの妖怪を退治し、手がん谷付近に住み着いて、掘った井戸が出羽の泉とよばれた。その昔からこんこんと湧く泉のうまさに、放牧の牛がこの泉から離れなかったと古老が語っている。 |
日盛山登り口の苫張峠に、横向き観音とよばれる四面観音がある。 大串岬 長ぞわえの海岸は潮の流れが早く、遠い昔から海の難所で、この流れに遭難した漁師の冥福を祈って、安永3年11月29日岬の岩の上に建てた白粉石造りの観音で、四面に観音像が刻まれて「四面観音」といわれた。 その後、長ぞわえの沖に舟がかかると動けなくなるという不思議なことが続くので、村人たちが苫張峠へ移し、海が見えないよう、東向きに建立したので横向き観音とよばれている。 |
仏穴は千百年余の昔、弘法大師が当地に来錫(らいしゃく)し、護摩(ごま)をたき、21日間の修業を積まれた所と伝えられ、穴大師が祀(まつ)られている。安政3年(1856)にはミニ四国八十八ヵ所が勧請(かんじょう)され、巡拝の信者も多かった。付近は標高250mの展望台の雄大な眺めを始め、渓谷、奇巌など自然美に富み、遊歩にも好適である。昭和57年5月30日、志度町観光協会の助成と地元有志の善意により、この霊蹟の地に29体の石仏を新造してミニ四国八十八ヵ所を復元するとともに、桜120本を植え添え、遊具を据付け、急坂には階段鉄柵を設け、自然公園としての施設を整えた。 | ||
仏穴地蔵 |
場所:さぬき市鴨庄新開 現さぬき市鴨庄第2分団所前 昭和20年4月3日一隻の空母が長浜沖に繋留された。この艦は大阪商船の改造空母「島根丸」2万tであり、昭和20年7月4日〜27日の米軍の攻撃で沈没した。 戦時中に金属供出で無くなった地元消防団の警鐘台を再建しようと2本のマスト(新開・白方)を利用して建てられたもので、白方は平成14年9月に老朽化が進み、新しいものを建て替え現在四国村に保存されており、新開は現在も当時の場所にある。 |
「話は庚申さんの晩にせい。」61日ごとにやってくる庚申の夜は、庚申講の講元の家に集まってお経をあげ、夜が明けるまで語り明かす風習から古老がこう語るのである。 庚申塔は村々の辻に建てられている。鴨庄大井の人里離れた野辺に、2つの庚申祠がある。志度地区ではただ一つの庚申祠である。 かたわらに弘化5年申年(1848)建立と刻んだユニークな奉献灯篭がある。 |