日時 平成23年2月20日(土)
さぬき市古墳勉強会第20回見学会
見学地
瑞花八稜鏡
かって造田長行の畑の中から、図のような鏡と経筒・古銭などが出土したので、経塚のあったことが知られている。
鏡は銅製で径10.5cm、内区に瑞花と鳳凰を一対ずつ配し、外区には各稜ごとに草花をあしらっている。藤原時代の作。
経筒や古銭はその後行方不明、鏡は願興寺が所蔵していたが、昭和27年同寺の火災で焼失。経筒があれば藤原時代のものかと思われる。
ー改訂 長尾町史 上巻ー
地蔵菩薩
西沢寺
造田長行西沢甲1202番地に西沢寺があったことを土地の者は伝えている。
現在果樹園になっている14㌃ばかりの地で、東方に幅2m、長さ100mも道があり、寺の馬場であったといい伝え、その西端に寺用に使ったという堀がある。
天正の兵火に焼かれ、宮西長行西沢之1607番地に移し西沢庵としたが、明治初年にまた焼けたのでその時とり出した地蔵菩薩(室町時代作)をその東方平地へ移して小庵を建て、西沢庵として現在に至っている。
その他塚原の寺山(三木町願勝寺の元屋敷という)、塚原の「あんごう寺」「しょうまん寺」(ともに現在も小地名にあり、寺跡から室町様式の石塔類が若干出土している)などもあった。まだ未調査のも含めると、天正以前には小さな寺が相当多くあったと推察される。
西沢寺跡石塔類
造田長行で、旧志度街道から新県道をつき抜けて約200m西方丘上に、西沢寺跡と呼ばれる約10㌃の平地がある。
この西沢寺の墓地にあった石塔類をこの平地の西南隅に集めてある。ここを開墾して桃畑にするために集められたもので、30基分以上もあろうかと思われる。
石塔類の種類は多く、宝塔・宝篋印塔・五輪塔・笠塔婆など大小さまざまで、すべて凝灰岩製である。
五輪塔には火輪の上下縁が、やや曲線で平行、軒端が垂直に切れていて、上部の反りが力強い鎌倉時代様式のものもあれば、下縁が水平で上縁が曲線、軒端がやや斜めに切れた室町様式のものもある。
宝篋印塔には笠の馬耳状突起が垂直に立った古い形のものもあれば、やや斜めに立った室町時代様式のものもある。おおむね室町時代のものが多い。
ここには中世に西沢寺があったところである。
この西沢寺の近辺にやはり室町様式の五輪の部分が、田の岸や荒地の中に若干残っていたが、耕作のためしだいに取り除かれた。しかしまだ残されたのがあり、西沢寺跡のものと合わせ、当時の石造の様式を知るうえに大いに参考となる。
長尾町造田宮西出土須恵器
胎土分析の結果が川上古墳とほとんど一致する資料として、長尾町造田宮西から出土したとされる須恵器が注目される。
この資料は、蓋杯が川上の蓋・杯a類に酷似するなど、型式的にも川上例との共通性を見いだすことができる。
加えて、この資料には鋸歯状に上下する独特の波状文を施した甕片(7)が含まれている、このような波状文は陶邑には類例が少なく、在地特有の文様である可能性が高い。この点は、間接的ながら川上古墳出土須恵器の産地が讃岐内であることを示すのではなかろうか。
(注釈)
この資料は、長尾町造田宮西において採集されたと伝えられているもので、遺物の具体的な出土地や出土状況は不明である。
松本敏三氏は埴輪片を含むことから古墳出土品である可能性を指摘している。
器種としては、甕・蓋杯・高杯などが挙げられ、時期的にはほぼTK216〜TK208型式にあてられるであろう。