日時 平成21年7月4日(土)
さぬき市古墳勉強会第15回見学会
見学地
磨崖仏は自然の岩石に仏像を彫刻したものです。世界的には数年前に破壊されたアフガニスタンのバーミヤン磨崖仏が記憶に新しいと思います。
わが国でも全国各地に磨崖仏は見られますが、大分県には著名な磨崖仏がたくさんあります。国東の磨崖仏はすばらしいものです。
西教寺磨崖仏は西教寺から西北へ谷筋を上がった中腹にあり、大きな転石に仏像が彫刻されています。
一般に磨崖仏が彫刻された時代は様々ですが、平安時代後期(荘園・末法思想・院政の頃)に流行しており、多くがこの時期に製作されています。西教寺磨崖仏は製作年号を示した書物や銘文はありませんが、形態から同じく平安時代後期に製作された可能性が考えられています。
仏像の種類は、伝承では薬師如来といわれていますが、はっきりとしないのが現状です。よって、どのような信仰を背景に彫刻されたのかは不明ですが、面白いのはこの場所が石切場であったということです。
西教寺磨崖仏が彫刻されている転石や周辺の岩相は凝灰岩という石材で、地元では白粉石、火山石と呼称しています。この石材で製作された石造物は鎌倉時代以降、香川東部を中心として広く流通しています。
平安時代後期の製品は少ないですが、京都府安楽寿院には火山石の石仏があります。大川町は平安時代後期頃にはこの安楽寿院の荘園でした。つまり、大川町の土地は安楽寿院の所有であり、安楽寿院に火山石の石仏があるということは、荘園と荘園領主の関係が背景に見ることができ歴史的にも貴重な遺産といえます。安楽寿院の石仏は西教寺磨崖仏のある石切場で製作された可能性がつよく、この場所に磨崖仏が形成された背景には、安楽寿院との関わりが推測されます。
安楽寿院は1137年に鳥羽上皇が鳥羽離宮内に建立したものです。よって、大川町は当時の最高権力者の寺院の荘園であったといえます。京の中央政権との関わりの中で西教寺磨崖仏は彫刻されたのではないでしょうか。
最後に、仏像の彫り方や形からは京都府加茂町の当尾にある大門磨崖仏と似ているという指摘もあります。当尾は安楽寿院から南にあり、大和、山城に多くの石造物の残した石工銘のある石造物が多く見られます。こうした場所の磨崖仏に類似しているという指摘もまた、大変興味深いものです。
西教寺奥の院磨崖仏
西教寺の西南に2基の石幢があります。ほぼ完存する東塔に対して西塔は笠から上がなくなっています。
石幢とは、八面あるいは六面をした塔で、灯籠に似たタイプを重制石幢、西教寺六面石幢のようなタイプを単制石幢といいます。
東塔から見ていきましょう。東塔は六面で、銘文が見られるのは二面です。一面には「バク」の梵字があります。梵字はインドの言語ですが、日本の石造物では梵字1字で1つの仏様をあらわしています。これを「種子(しゅじ)」といいます。「バク」は「釈迦如来」であり、釈迦如来が関わった信仰の可能性がありますが、はっきりとしたことはわかりません。「バク」の横の面には「永和二年」の年号銘があり、1376年の南北朝時代に製作されたことがわかります。
西塔は各面の幅が不均等です。製作年は銘文から1372年とあり、東塔とは4年の差ですが、製作方法の違いが目立ちます。各面は5面に2つの種子、1面に3つの種子の計13の種子があります。時計回りに種子の仏を見ていくと、十三仏信仰であることがわかります。十三仏信仰とは、初七日から三十三回忌までの13回の仏事をする時、13体の仏を配当した信仰です。経典には十三仏信仰について書かれておらず、日本独自に出来上がった信仰といえます。十三仏信仰の石造物は室町時代の後半から各地で見られるようになりますが、南北朝時代以前のものは少ないです。したがって当例は全国的にも初期に製作された十三仏信仰の石造物であると評価できます。
これら2基の石幢はかつて門前にあったと伝わっています(現在地は後の時代に移転されている)。同じく、門前にある例として長尾寺門前の石幢があります。門前は寺院の境界になります。聖域を結界するような意図があったのかもしれません。
西教寺十三仏石幢種子配当表
さぬき市には多くの石幢があります。これほどまで多くの石幢がある地域は全国的にも珍しいです。そのあまたの石幢の中で最も古い年号の刻まれているのが筒野八面石幢です。文永7年とあります。文永7年は1270年で、鎌倉時代の中頃になります。源氏が3代で滅び、北条氏による執権政治が行われていた頃です。この4年後にモンゴル帝国との戦い、文永の役が勃発します。元寇です。
筒野の八面石幢は何のために造立されたのでしょうか。それを考えるヒントとして塔に多くの銘文が残されています。弥陀大咒、弥陀小咒、延命真言、千手真言の銘があります。また、各面に2〜3の梵字が見られます。これらの銘文から信仰の内容を窺うことができますが、現在のところ十分にはその内容が解明されていません。これからの課題といえます。
そこで、次に視点を変え、どのような場所に立っているのか見てみましょう。塔の北側には東西に直線的な道路があります。この道路は古代以来の幹線路である南海道であると考えられています。つまり、交通の要所に立てられていることが指摘できます。交通の要所には多くの人々が集まります。多くの人々が集まる場所には宗教人も集まり、盛んに信仰を広めていたことでしょう。この塔は宗教集団のシンボルとして造立された可能性もあります。
当の場所をさらに詳細に観察すると、塔の西側には川が流れていた可能性があります。川の岸に石造物が造立される例も多く、水難者の供養であるとか、橋などの建設に関わって造立された可能性が想像されます。また、川は地域の境界になる可能性があります。境界の表示を意図していた可能性もあります。現在、地表で観察される田の区画を見ると、筒野から西は碁盤目状の区画が明瞭なのに対して東では不明瞭です。西と東で地域的な括りがあったのかもしれません。
最後に地名を考えてみましょう。筒野の筒は経塚などで、経典を納めた経筒の存在が連想されます。石幢の形は、石造物として普及する前には、経筒の形に見ることができます。つまり、筒野の八面石幢も経典を埋納した経塚の標識であった可能性も考えられます。
具体的な信仰の内容はまだ明らかになっていません。是非、様々な説を推理してみてください。
なお、現在、塔は高い基壇の上にあります。もしかすると、本来は墳丘状のマウントの上に造立されていたのかもしれません。
下り松庵の中に1体の石幢が安置されています。六面で各面の上半に地蔵が彫刻されています。六地蔵です。地蔵は地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六界を自由に行き来して、人々を救済するといわれており、6体の地蔵を表現します。今でも墓地の入り口には六地蔵があります。また、子供を守るといわれており、子供のお墓では地蔵が表現されたものが多くあります。
さて、下り松六地蔵石幢は地蔵の表現の下に各面に妙法蓮華経の文字があります。妙法蓮華経といえば日蓮宗を連想される方もいると思いますが、経塚との関わりが考えたほうが良いと思います。
経塚とは経典を埋納する風習です。12世紀の平安時代後期に流行しました。経典を埋める理由は、埋納する経典を書写することで功徳をもとめることと、それを埋め、釈迦入滅後の56億7千万年後に弥勒菩薩が出現して人々を助けるまで保存しておくことにありました。埋められた経典は法華経が多く、よって、妙法蓮華経の銘文は経塚との関わりが推測されるのです。経筒を連想させる筒野八面石幢や長尾寺の経幢など石幢は経塚と深い関わりがあることが解ります。
下り松六地蔵石幢は経塚的な性格がある一方で、銘文を読むと、円性という人物の追善供養のために造立したことがわかります。
この塔からいえることは、塔にこめられた意図は一つではないということです。六地蔵からは地蔵信仰が読み取れ、妙法蓮華経から埋経の信仰が読み取れ、銘文からは故人の追善供養が読み取れるのです。このような様々な信仰がからみあって下り松六地蔵石幢は造立されたと考えられます。
下り松六地蔵石幢には応永八年の銘文があります。西暦でいうと1401年で、室町時代の前半に造立されたことがわかります。時代は足利義満の時代で地方では守護大名の力が大きくなりはじめた時代です。香川県では細川氏が守護大名で、その下の守護代として、西に香川氏、東に安富氏がいた時代です。
石造物の特徴は、この頃から規模が小型化してきます。30年前の西教寺の六面石幢と比較すれば小型化が実感できるかと思います。
下り松 六地蔵石幢
大川町
古枝 六地蔵石幢
大川町
友近 六地蔵石幢
大川町
専好寺 六地蔵石幢
寒川町