場所:さぬき市鴨庄・小田の最北端

 志度湾の東半円を包んで伸びている。この半島には古代人が住んでいたらしく、弥生土器・師楽遺跡等などが出土している。また松平藩の放牧場があり、軍馬の養成が行われていた。そのためか半島の殆どは国有林であったため荒らされていない。
 この半島内には狼煙場・石切場(約800年前使用されたものがそのまま残っている)・砲台跡・師楽遺跡・長ぞわい観音等がある。


 お お ぐ し  の ろ し ば  あ と
(市・史跡)

 昔から外敵を防ぐための海上警備や、島や船との連絡のため各地に「狼煙台(のろしだい)」が築かれた。この近辺では馬が鼻岬、上野山高原にもあった。大串岬のろし台は、江戸時代高松藩が構築したもので、直径5mの円形上に高さ約4mの地石を積み重ねた見事なもので、完全に残っているのは極めて珍しい。
 



 お お ぐ し  い し き り ば  あ と
大串石切場跡(市・史跡)

 大串半島一帯は藩政時代は高松藩が所有する馬の放牧地であり、明治以降は国有地として開拓・居住が禁じられていたため、旧採石場は中世の状態が保たれてきた。石切場は白粉谷の傾斜地を上段・中段・下段の三段が斜め方向に、ほぼ東西に下る。高さ数メートル〜30メートルの岸壁に、地覆石や板石と思われる剥ぎ取り跡が一面に残り、五輪塔の火輪(笠部)の取り残した部分もある。採石場の規模から中世は相当広い範囲に搬出されたことが推測される。ここから石塔が志度寺に納められた伝承があり、14世紀の絹本著色志度寺縁起図には志度寺裏の海岸に並ぶ四十数基の白い五輪塔や宝塔がみられ、その関連が伺われる。


長者ヶ谷と師楽遺蹟

  大串の土地はもともと未踏の地といわれていたが、実は3000年の昔、新しい文化を持つ弥生人が住んでいたことが、昭和49年当時志度東中学校江口義之教諭らの調査で判明した。
  志度東中の2年生数人が、長者ヶ谷の沿岸へ魚釣にきて拾った土器から発掘した結果、岡山県牛窓で発掘された師楽土器(しらくどき)と同じ製塩土器の破片や、それより古い弥生土器が出土したのである。

砲台跡

      大串狼煙場跡のすぐ下2000㎡の平坦地に、幕末に高松藩が構築した砲台と弾薬庫跡が残っている。 
      昭和63年この地に、新しい長ぞわい観音像(約7m高)が建立されている。 


バベ木の端

 太平洋戦争が終局を迎えた昭和20年、日本海軍は神戸で民間商船「島根丸」を護衛空母(約2万トン)に改造していた。神戸が空襲を受け、軍はこれを隠すため4月3日鴨庄湾に曳航してきて、この先の湾中央部に投錨した。
 住民は敵の発見を逃れるため、軍の要請で松の木を甲板に立て並べて偽装したが、何の役にも立たなかった。7月に入り敵機に発覚され、毎日のように艦載機グラマンの機銃攻撃を受けた。住民は恐怖にさらされ日夜逃げ隠れしていた。
 7月27日午後2時頃、B29数機の爆雷投下を受け、後部3分の1から折れ大破し沈座したが、正姿のためかその後も攻撃は続いた。近海また内陸にも移航阻止のためか多数の機雷が投下された。
 戦後になり、空母は浪速ドックの手により何年もかけて解体され、機雷も掃海処理された。現在、空母「島根丸」の一部である通信用マストは、今も近くの新開消防屯所の警鐘台と四国村に健在である。
 護衛空母「島根丸」が見えたバベ木の端(はな)−として往時の記憶がよみがえる立札が、平成20年5月文化財保護協会志度支部有志により立てられた。