名称 如意山文殊院地蔵寺  宗派 真言宗善通寺派
所在地 さぬき市志度545    本尊 文殊菩薩
開祖 薗子尼(志度寺本尊を開眼し、同寺を創建した)

 名刹志度寺の奥の院で、如意山文殊院地蔵寺と称す。室町時代前期の創建とも伝えられる。真言宗御室派に属していたが、善通寺が本山になってより善通寺派となる。本尊は文殊菩薩である。開祖は志度寺本尊を開眼し同寺を創建した薗子尼(そのこあま)である。後世に至り園子尼の化身である文殊菩薩を安置し、さらに地蔵菩薩を祀ったので、現在の寺名を称えるようになった。
 往古は志度寺を開いた願主・薗子尼が住んでいたので「薗子屋敷」といい、また「文殊屋敷」とも呼ばれた。歴史の上では志度寺よりも古い寺である。

寺門の東側の石柱に「海鵄魚口(えのうおぐち)魚霊堂」と刻んであるのは本寺をまた魚霊堂(うおのみどう)」と称しているからである。その経緯は次の通りである。
由来 景行天皇のころ、土佐の海に大魚が居て、舟を襲い人を喰い横暴の限りを尽くした。天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の子、霊子(れいし)に悪魚退治を命じられた。霊子は五百の軍船を造り千数百の兵士を集めて出発したが、悪魚に舟も兵士も一飲みにされてしまった。勇敢な霊子は体内の軍船に火をつけ、悪魚を退治したので、褒美に讃岐の国を貰い、国司として善政をしいた。里人は讃留霊王(さるれおう)と呼び尊敬した。悪魚のたたりを恐れてお堂を建ておまつりしたのがこの地蔵寺(魚霊堂うおのみどう)と伝えられている。



  本堂と鐘楼

  本堂  三間四面。享保十五年寒川政員再建。また平成七年十六代弘文が再再建本尊は文殊菩薩、薗子尼像、諸国古跡本尊六十六体尊像を安置する。また、什物として珍しい地獄絵図(万治二年)をはじめ、版木などが多く残っている。
  江戸時代前期ごろには沙門円如宥舜が住んでいたが、寺運次第に衰え、一時は無住の寺となった。享保十四年(1729)高松藩に願い出て再興が許可となり、志度の庄屋多田権右衛門の五男密英(俗名金八)が住職となり、翌十五年文殊堂(本堂)を再建した。寺では密英を中興の祖とし、当時の棟札が今に残っている。
  
  鐘楼  十四代慈渕が発願して果さなかった鐘楼を、百三年後の昭和六十三年十五代澄心が建立した。



  地蔵堂                                         昇竜柏

二間四面の建物で天保十一年九代恵空が再建する。そして平成六年十六代弘文が再再建した。
本尊地蔵菩薩、弘法大師像、阿弥陀如来像、十一面観音像、不動明王像、愛染明王像を安置している。

元は二本有ったので夫婦柏と呼ばれた。何れも樹高二十メートルで、幹周り五・三メートルの大木で樹齢は不明だが、寺伝では、志度寺本堂で国の重要文化財の十一面観音像を彫刻した残り木から芽を出した物と言われる。 
枝が上部で張り、幹が高く捻れて、一見して龍が天に登る様な相をして居るので「柏竜」「昇竜柏」の別名がある。柏は中国では吉兆の香木で、葉は緑で四季色を変えないので、松と共に節操の硬い樹木として親しまれている。



  庚申堂の青面金剛

  文久三年令範建立、昭和六十二年十五代澄心再建。本尊青面金剛、九頭竜権現、毘沙門天を祀る。境内の南西に、寺の鎮守として格好の神殿造りのお宮で、昭和六十二年九月に改築したのが庚申堂である。
お厨子の中には青面金剛を祀る。六本の手、身色は大青色、三つの
目。髪は夜叉の様で、身体に大赤蛇を巻き、様相は憤怒に満ちている。
このお堂は江戸中・末期頃市井にはやった庚申信仰の殿堂であった所であり、里人たちは庚申(かのえさる)の夜、拝殿に集り、お灯明を上げ、七色の菓子を供え、般若心経を繰り、翌朝まで通夜をする。この晩寝ると幸せが逃げたり、男女交合をすると知恵足らずの子供が生まれると言う。「長い話は庚申さんの晩にしなさい」と言う諺もある。
お参りすると無病息災、二世安楽、祈願成就が得られると言う。