伝説・昔話


志度編


美曽利塚みそりづか

今から千三百年も遡る。国内に疫病が流行して、次から次へと人が死んで行った。そのとき多和大神の御霊(みたま)が神主さんの娘に乗り移って申されるには、「綾郡玉井郷に住む小左自古(こさじこ)と言うものが、美しい玉を持っている。それからもう一つは志度浦高島の東方に夜な夜な光る所があって、その海底に大きな蛤がある。その蛤貝の腹の中に美しい玉が隠されている。この二つの玉を我に奉って祓いを すれば疫病はことごとく治るであろう」とお告げがあった。
 そこで多和大神の神主は、小左自古の所へ行って訳を話したところ、快く承ってくれた。 海底の玉は志度浦に住む漁師の美曽利(みそり)に頼んで夜毎に光る海に潜ってもらった。 美曽利は大きな蛤貝を抱きかかえて波の上に浮き上がったまではよかったが、やがて死んでしまった。蛤貝の中には言ったとおりの美しい玉があった。 神主は求めた二つの玉を捧げお祓いすると忽ちにして国内の疫病は止んだ。人々は犠牲になった漁師「美曽利」の死を悲しみ、海辺に近い小島の小塚山に葬った。いま、小塚山は陸地となっていて、現在はタダノ志度工場の東側の小高い丘(高さ5m、周囲約20m)である。そしてここに「美曽利塚」の石祠が復元された(昭和58年、岡村信男氏建立)。 
 この伝説は「海女の玉とり」と混同されて伝えられているが、実は別の話である

美曾利塚 美曾利塚全景

志度寺の肉付きの面

志度寺本堂に入ると西のなげしの上に、東に向かって、人呼んで「肉付きの面」と言うのが掛かっている。目は凄く、口は裂け、青白い顔に角が生え、おんぼろ髪を前にたらし、口からは不気味な舌をのぞかせ、見るからに恐ろしい形相をして居る。
 その昔志度に根性の悪い婆さんが居た。自分の事は棚に上げ、する事なす事嫁が憎くてたまらなかったと言う。息子を嫁に取られたからか今でもあることだが、とにかく分からず屋のいじわる婆さんであった。 こんなむつかしい姑(しゅうとめ)の下に仕えて、何一つ逆らうことなく、はいはいと働いている嫁は信仰心が厚く、まだ人の起きない内に志度寺に参拝し「今日は姑に気に入ってもらえますように」と、観音様にお祈りしていた。この事を知った姑は「私が早く死ぬようにと、そんな祈願をして居るのだろう」と邪推し、この憎い嫁が二度と寺参りをしない様に、一つ懲らしめてやろうと悪心を起したのである。 あくる朝、嫁より早めに起きて、隠してあった「般若(はんにゃ)の面」をかむり、まだ薄暗い寺の門で嫁の来るのを待ち構えていた。嫁は観音様の導きがあっての事か、その朝に限ってお寺へは参らなかった。姑は仕方なく、かむっていた面を脱ごうとしたが、顔が引っ付いて取る事が出来ない。住職や駆けつけた人達で無理に脱がすと、姑の顔面が剥がれて、面にくっ付いていたと言う話である。


義経と大夫黒

源平屋島合戦のときの話である。佐藤継信は主君源義経の身代わりとして、はなばなしく戦死した。
義経は隣村の志度寺の住職、覚阿上人を呼んで、経文を書き、引導を渡してもらった。このお礼として「大夫黒」と言う義経の愛馬一頭を上人に贈ったといわれる。大夫黒は、もとは院の御所で飼育されていて、上皇から贈られた名馬で、義経が一の谷の合戦やひよどり越えの戦いなど、戦場に向かう時には必ずこの大夫黒を召したといわれている。覚阿上人は一旦志度寺に引き取って飼育していたが、のち鴨部馬次の極楽寺に預けた。大夫黒がこの寺で余生を送っているとき、ある日突然に厩から抜け出して行方が判らなくなった。極楽寺では、志度寺からの預かり馬であるばかりか、もとを質せば院の馬で、義経から贈られたいわく因縁つきのものである。 寺中が大騒ぎして村人を狩り出し、八方捜し歩いたが、どうしても見つからない。半分は諦めていたところ、牟礼で葬った継信の墓の前で死んでいるという知らせがあった。寺では坊さん総出で経文をあげ、主人の側にねんごろに埋葬して墓を建てた。
 いま牟礼の王墓にある大夫黒の墓がそれである。


竹林上人の法力

志度の竹林さんは弘法大師と同じぐらい、多くの伝説を持っている。竹林さんが死を予言して入定するとき、六人の弟子達の目の前で「わたしが死んだら、五十年後には偉い坊さんを呼んで供養しておくれ。ついでに墓の中も奇麗に掃除しておくれ」と頼んだ。
  ところがこの事を忘れてしまい、五十年経っても実行しなかった。 ある日自性院の住職が隠谷にある上人の墓へ行ってみると、墓の蓋石が除けられていた。この時竹林さんは墓から抜け出し、大阪方面へ旅に出ていたと言う。 時を同じくして大阪道頓堀で、ある金持ちの娘が死んだ。可愛い一人娘の死で家中の者が泣き悲しんでいるとき、ぼろぼろの法衣を身につけた坊さんが通り掛かり、「よし、私が生き返らせてあげよう」と、独り言のように呪文を唱え、数珠を操ると、死んでいた娘が忽ち息を吹き返し蘇生した。 金持ちは「お金は幾らでも上げます。娘のためにどんなお礼でも致します。遠慮しないで何なりとも申し付け下さい」と申し出ると、上人は首を振って「いやいや、わたしなどにはお礼は要らぬ。わたしの氏寺、さぬきの志度に自性院と申す寺がある。そこの天蓋が古びているので一つ寄付して欲しい」と言い残していずこともなく姿を消したという。
  この天蓋は明治の終わり頃まで大切に保存されていた。 上人は亡くなってからも、今に人身救済を続けて居られるという話。


動き石

天野峠の頂上から北へ登った所に、三抱えから四抱えもある大岩が、国道に落ちかかる様に据わっている。昔からこの石を動き石と呼んでいる。天野峠は志度から鴨部の里に越す峠であって、標高は八十米そこそこだが、勾配が急で鬱蒼と老松が茂り、近くには墓地,火葬場、屠殺場等もあって大変物騒な所であった。時々は追いはぎが出て通行人を襲っては金品を巻き上げていた。
 ある日、スマートな青年が通り掛った。「よい獲物に有り付いたわい」と例の追いはぎが現れ「さあ小僧,着物と財布を置いて行け」と怒鳴りつけた。青年は落ち着き払って、「それではお前さんと力ためしをやろう。この石を持ち上げたら、わたしの着物と財布を差し上げよう」 まず青年が石を軽々と持ち上げて見せた。追剥は「何を小癪(こしゃく)な」といきなり立って、今青年が持ち上げた石を持ち上げようとしたが、微動だにしない。困り果てた追剥は「もうこれからは、悪いことは致しません」と、頭をかかえて逃げ帰ったと言う。それからこの石を動き石といい、善人が動かすと意のままに動き、悪人が動かすと絶対に動かないといわれる。
  また、この石に海女たちが腰をかけたので「海女の腰かけ石」とも呼んでいる。


津村の山の神さん

津村から末にぬける県道の左側に上を中池、下を下池と呼ぶ二つの池がある。この中池の東あたりを「宇治屋屋敷」といっている。
  ここに渡辺常慶という人が京都の宇治から来て住んでいた。常慶は商才にたけている一方、力持ちで剣を握っても引けをとることはなかった。或る日の朝の事である。常慶が屋敷を出て二つ池の堤防を渡ろうとすると、胴の周りが四十㌢、長さ五㍍もあろうかと思う大蛇が、とぐろを巻いているではないか。 常慶は大蛇に向って「性あるものか、ないものか、性がないなら私が帰るまでに逃げておけ」といって、志度浦へ出掛けたが、夕方帰って来ても一向逃げようとしない。仕方なく常慶は太刀を抜き、暴れまわる大蛇を三つ切りにして退治した。そして頭の部分、胴の部分、尻尾の部分をそれぞれ三ヶ所に分散して埋め、ねんごろに葬ったと言う。
  津村の人々が相談して頭を「上の山の神」胴を「中の山の神」尾を「下の山の神」として石祠を建てて祀った。三つの山の神の中では「下の山の神」が一番威厳もあり霊験もあらたかという。ここに参拝すると風邪や咳を治してくれる。神様は「魚」が好物なので、志度浦あたりから「おこぜ」を提げて参拝する人があるという。