弘法大師と目洗い石
今から千二百年の昔、小田浦には二十戸ばかりの漁師が住んでいて、大串半島や上野山当たりに出かけては魚を取ったり、けだものを追いかけるなど、貧しい生活をしていた。
ところが一見して平和なこの浦に、突然目の病気が流行し村人を悩ませたのである。秋の日も沈もうとしたある日の夕方、灯の消えたようなこの浦に一人の僧が通りかかった。粗末な法衣をつけているが、見る限り上品な風ぼうをして居る。村人はこの僧に向って、「どうか仏の加護で村中の眼病をお救い下さい」と嘆願した。僧は一寸困ったような顔をしたが、やがて法衣の袖から数珠を取り出し、手の中で丸めてから、晴ればれとした口調で、「皆さん心配することはありませんよ。この小田峠を登った所に三抱えほどの大石がある。その石のくぼみの水で目を洗いなさい。きっと治ります」と告げて消えた。
後で気付いた事だが、このお坊さんこそ弘法大師だったと言われている。村人は大師の教えられたとおり、くぼみの水で目を洗うと、忽ちにして村中の眼病が治った。それ以来村では「大師講」をつくり、お看経をあげ、峠の大石を「目洗い石」と命名して、長く大師の徳を偲んだ。
時代は移り変わり、この美しい物語はすつかり忘れられてしまった。何百年の間この大石も、小田峠の路傍の石として見捨てられていた。戦後暫くして、由緒ある石とも知らず、高松の某会社の庭石として移された。やがて支店長の知る所となり、弘法大師入定千百五十年を記念して、もとの場所に寄贈安置したいと申出があり、地元の人からも「是非そうして欲しい」と言う声がおこり、昭和59年12月25日、23年ぶりにもとの小田峠に帰ってきた。誰が供えるのか新しい花が絶える事がない。
今から百五十年ほど昔にさかのぼる。大井の日盛山の麓に近郷近在きっての美しい娘が居た。名をおふみと言い、年は十六歳。恋心のつくのも無理からぬ年頃である。
おふみは北前船の出る新開免の長造と婚約までするよい仲となった。ところがこの美しいおふみに横恋慕したのが、横井免のばくち打ちの横鶴という男である。そして長造を脅かし、おふみを奪おうとした。おふみを渡さなければ斬ってやる。殺してやるぞの脅迫にたまりかねた二人は、「横鶴に切られて死ぬぐらいなら、死んであの世で一緒になろう」と決心した。
おふみは健気にも包丁で胸を突き、長造も護身用の短刀でおふみの後を追った。この不憫な二人のために、両家が申し合わせて、せめて野辺の送りの日時を一緒にしてやろうと、長造は大谷の真如堂の火葬場で、おふみは大井の地蔵端の火葬場で荼毘(だび)にふした。
この時不思議な事に、遠く離れて上った荼毘の煙が、西と東から寄って来て一つになり、日盛山の上まで高々と上がったと言うことである。きっと二人の恋が天上で結ばれたのに違いない。この話がのち「新開心中」として浪曲や浄瑠璃に語られた。またその頃村人達のあいだで、次ぎの様な悲恋の歌が歌われたそうな。
1, おふみ上臈結べぬ恋は
末を契った殿御の仲を
無頼の博徒、横鶴が
情け無用の横恋慕
2, 横鶴憎いと涙も涸れて
この世で添えぬ運命なら
二人の夢をあの世にかけて
殿御と共に自害する
3, あの世で添おうと誓った二人
荼毘の煙が相寄って
からんで大きい渦となり
日盛の山を越えてゆく
鴨庄松ヶ端に「踊り場」という所があった。松平の殿様の時代に、魔物たちが毎晩この畑に集って躍り狂うので、村人達が怖がり、すぐ近くに住む渡辺九郎兵衛に、この魔物を退治してくれる様頼んだ。元はと言うと武士だった九郎兵衛は剣にかけては自信もあり、毎日退屈していたので「よっしゃよっしゃ」と簡単に引き受けた。
早速その晩、伝来の大刀を引っ提げて踊り畑に来てみると、噂のとおり数え切れぬ程の魔物が集っている。九郎兵衛は「すわっ」とばかりに大刀を抜き、斬って切りまくっても、どうした事か手元から逃げられて一向に退治できない。夜明けまで奮戦したが一匹の魔物を倒すことができず、疲れくたびれて我が家へ引き返した。帰ってから大刀を点検して見ると、刀の手元に一つの刃こぼれがあった。九郎兵衛は家中の者を集め、「誰かこの刀を使ったものは居ないか」と聞くと、仕えていた女中が恐る恐る「旦那様の刀の切れ具合を試したいので、悪いとは知りながら、私が裁縫の時糸を切りました」と白状した。
九郎兵衛は小膝を叩いて「それで分った。不浄な女手で刀が穢れ、そこから魔物が逃げたわい」と。その次の夜、九郎兵衛は別の大刀を提げて再び踊り畑に乗り込み、忽ちにして魔物を退治してしまったと言う。女中は責任を感じてムクの木で自害した。ムクの木を切ると血が流れ出るという伝承がいまに渡辺家に残っている。
鴨庄川西の鴨部川堤防に可愛らしい地蔵尊を祀っている。もとはもう少し北の方にあったのだが、鴨部川の改修でここへ移されてきた。鴨庄橋の架かっていなかった時代には、志度から来た人はたいてい、この地蔵さんの前で草履を脱ぎ、裾をからげて鴨部川を渡った。
ある年の夏の日のことである。大時化で十日も鴨部川の水が引かず、村人は大変難儀をした。老人や子供は誰かに背負って貰い、川を渡るほかに術がなかった。ある日心掛けの悪い若者が川を渡ろうと、地蔵さんの前まで来ると、そこにみすぼらしい老人と、美しい娘が佇んで居た。
老人はこの若者に背負って貰いたかった様子であったが、男は老人には目もくれず、自分で渡ろうとしている娘に声をかけ、無理やりに背中に乗せ、ニコニコ顔で川を渡りかけた。男が川の真ん中までくると、どうしたことか娘の体がだんだん重くなってくる。
川は次第に深くなるので、ひどく疲れてきた。冷たい風がすっと吹いて肌寒さを感じたとき、後ろを振り向くと背中には娘ではなく、石の地蔵さんが乗っていた。男は急いで川を引き返し、地蔵さんを元の場所へ戻した。
男は恐ろしくなり、この地蔵さんが「罰」を当てたのだと反省し、今度は老人を背負って川を渡ったと言う。
鴨庄小方に「潮見山寂静院光蓮寺」という、れっきとした寺号を持つ寺があるが、昔の面影はなく、村人からは「寺山庵」と呼んで親しまれている。
庵に祀ってある仏像や、墓地の石柱などから、余程歴史を踏んだ庵と思われる。 三代物語と讃州府誌には、「昔この所に大いなる金持ちあり、大寺を建立し、黄金百万両を埋める」と記して有り、村ではこの金持ちを「景山長者」だと伝えている。景山長者のくどきが盆踊りなどで盛んに歌われているので、村人が言うのが正しいのかも知れない。
黄金を埋めた場所は「朝日指す夕日輝く影の裏、黄金百万両有明の月」と、暗号めいた歌が口伝として残っているが、地元では、庵の西北方にある「丸山」だと話している。
ここの丸山からは、白粉石や豊島石の古い祠のかけらが、今に山土の中から顔をのぞかせている。明治の終わり頃物好きな村の若者が掘ってみたが、何も出てこなかったと言われる。