伝説・昔話



小田編


おしゃべり地蔵さん


逢坂トンネルを北にぬけた左側に、高さ五十センチほどの「おしゃべり地蔵さん」と呼ぶ石仏がある。
このトンネルがなかった昔のことである。小田の片田舎から大阪へ奉公に出ていた娘が休暇をもらい、津田で船を降り、馬次まで馬で、馬次からは信玄袋を背負い、歩いて小田に帰っていた。白川原大池の堤防で腰をおろし一休みしていたとき樵が通りかかり、「私も小田峠の向こうへ行く途中だ。よい便だから荷物を乗せなさい」と親切にも押してきた猫車に積んでくれた。防越池のほとりで樵と分かれるとき、娘はお礼に金を出そうとした。男が娘の肩越しに覗いて見ると、その財布の中には山吹色の小判が入っていた。男はこれを見て俄に変心し、無惨にも猫車の肩かけで娘を殺し、財布を奪い、死体は池の中に投げ込んだ。男はあたりを見回したが誰も居ない。よくみると池の側にある地蔵さんがげらげらと笑っていた。男は地蔵さんに「決してしゃべるではないぞ」というと「お前こそしゃべるではないぞ」と言いかえされた。
それから三年の年月が流れたが、ちょうど娘の命日に当たるある日、こんどは旅帰りと思われる青年が、以前の娘と同じように信玄袋をもって白川原大池で休んでいた。そこへくだんの樵が通りかかり、世間話をしながら小田峠のお地蔵さんのところまできた。この時樵は何を思ったのか、三年前の出来事を全部しゃべってしまった。一緒に居た青年の口から次々と噂は広がり、やがて役人の耳に入り、ついに牢獄につながれたという。
犯人が何も問われないのに白状するのは不思議な話だが、おそらく地蔵さんがしゃべらしたに違いない。「おしゃべり地蔵」の名もそこから付けられたのであろう。



木内兼光と茶臼

小田の中空、木内信市さんの家に、むかしから家の守り神として大切にして居る古ぼけた一基の茶臼(ちゃうす)がある。直径25センチ、高さ20センチの丸い石臼である。
その昔木内家の先祖に木内次郎兼光という武士が居て小田の里を治めていた。土佐の長宗我部軍が攻め入ったとき、捕らえられて土佐へ連れて行かれ城内の土蔵に監禁された。この時兼光は「もうこれがこの世の最期だ。到底生きて故郷へは帰れまい」と半ばあきらめ、故郷の妻子のことを夢に見ながら寝込んでいた。ある夜半、ふと目を覚ますと誰が開けたか、土蔵の戸が僅かに開いている。不思議に思ってあたりを見回したが人影もない。「これは逃げられるぞ」そう思った兼光は急いで土蔵を抜け出したが、外堀があるのでどうしょうもない。堀へ飛び込もうにも泳ぎを知らない。折りよく近くにあった竹薮に身をひそめて思案した。はたと膝を打って、「竹によじのぼって、竹の曲がるのを利用したら向こう側へ跳び越せる」と思いついた。するすると竹に登ったまではよかったが、体が軽いので思うように竹が曲がらない。半ばあきらめて降りて見ると、ふとそこに登るときにはなかったはずの石の茶うすがちゃんと置かれている。兼光は「これは確かに神様のお授けだ」と、こんどは茶うすを背にくくりつけて再び竹によじ登った。うまく竹が曲がって無事に外堀を越す事が出来たという。
兼光はこの茶うすを命の恩人として、背負ってふるさとへの道を急いだ。何日もかかってやっと小田へたどりついた。そして棚をつくって茶うすをのせ、家の守り神として祀った。



帰ってきた興津の道標


これは昭和に入ってからの話である。鴨庄大井峠の頂上に「右小田道」「左興津道」と見事な行書で書いた道標が建っていた。いつの日かこの道標が盗難にかかった。警察へ届け出てあったので、半年ほど経ってから犯人が捕まり、石川県の方で売り飛ばしていた事が分かった。そして一年ぶりに古里の興津へ戻ってきたのである。興津では里の人が寄り合い、二度と盗まれないように、こんどは峠からおろして民家に近い海岸に移し、コンクリートで土台を固めた。
この道標を盗んだ犯人は二人組で、犯人の自供から、横にあったお地蔵さんまで持っていく魂胆らしかった。犯人は道標とお地蔵さんを盗むため、日の沈むまで峠の山陰にひそみ機を狙っていた。人通りも少なくなり、暗くなったのを見計らっていよいよ行動を開始した。まず道標から作業に取りかかる。二百キロもあるので、そう簡単には掘り出せない。そしてときどき車が前を通る。仕事に手間どっているとき、どこからか、「それを盗ると後で困るぞ」という声がした。横の一人に「お前何か言うたか」と聞くと、「いや何も言わない」と答えた。二人はおかしいと思いながら横のお地蔵さんを見ると、お姿が闇の中に光っている。二人は恐ろしくなり、お地蔵さんには手をつけず、道標だけをトラックに積み、夜を日についで石川県まで走った。それまではよかったが、ついに「御用」となったわけである。お地蔵さんの予言通り「後で困った」ことになった。
犯人から悪事を詫びる手紙と、金一封が送られてきたのは、更に一ヶ月も経ってからのことである。



法順 のんのんさん

小田の苫張におよしという十二歳になる女の子がいた。或る年この里に病気が広がり、毎日のように多くの人が死んでいった。およしは病気で困っている哀れな姿を見て、「どうにかしてこの人たちを救ってあげたい」と、子供心に大願を立て、頭を丸め法順と名を改め、鉢と錫杖を手に四国巡礼の旅に出た。
法順さんが阿波一番の難所、焼山寺の坂道で腰を下ろしていたとき、突然お大師さんが現れ、この山を登る途中、大きな松の木に六つの輪のついた錫杖をかけてある。「そなたに授けるから大事に持ってゆけ」と声をかけられた。喜んで錫杖をいただいた法順さんは、これを頼りに何年かの四国遍路を続けた。こんどは伊予の大瀬が谷にきたとき、また不思議なことが起こった。突然目の前に老遍路が現れ、「これを授けるから決して人に見せるではないぞ。これをたずさえて万人を助けよ」と、白紙に包んだ六つの宝をいただいた。
何年間も艱難苦行をした法順さんは、いよいよこの日を境に自分の病気も治り、万人救済の法力を持つ法順さんになったのである。
それからというものは、法順さんが出て錫杖とお宝をいただかせると、どんな病気でも、どんな願いごとでもかなえてくれた。里人たちは「今様大師」として法順さんをあがめ、法順さんのために静寂な庵を建立した。これが今ある苫張の弘海寺である。
「生身の大師様」と子供からは「のんのんさん」と呼んで親しまれ、信者を運ぶ幾十隻の船が、毎日のように苫張の港に発着したことは、まだ耳新しい話。



船を止めた観音さん

大井から小田苫張へ越す峠を通称「観音坂」と呼び、ここの小堂に白粉石でつくった観音像を祀っている。頭部は欠け、体も崩れて痛々しい姿をして居るが、お姿が四方にあるので四面観音さんと呼んでいる。
もとは大串半島の北島の岬にある長ぞわいに建っていた。二百年ほどむかし、小田西の谷の漁師が小舟に松葉を積んで高松へ行く途中、このそわいで遭難してから、死者の供養のために祀られたといわれる。古老の話では、この観音さんは「知恵の観音」、「感情の観音」といい、瀬戸内海を航行する船のうち、気に入らない船は「長ぞわい」で動けなくなるという不思議なことか続くので、漁師たちは相談してこの観音坂へ移し替えたという話である。