伝説・昔話



鴨部編



御所の候補地になった鴨部


むかしの鴨部村の地域には、御所地、二番、四番、六番、九条、西山、東山、中筋、など京の都にありそうな地名が多残っている。平安の頃には鴨部東山地区には「東山千軒寺」と言われるほど、多くの寺院が建っていた。
あるとき都の上皇様から通達があって、鴨部の土地を御所にしたいと言ってよこした。地元の役人衆は頭を寄せ合い、知恵をしぼって村中を二番、四番、六番、八番、と区画を定め設計も出来上がった。旬日を経ずして上皇様が実地検分のため、都からわざわざ鴨部へやってこられた。
しかし余りにも土地が狭く、其の上湿地帯で、報告書や設計書と違って四面が 山ばかり、これでは御所たるの価値なしと、大変な剣幕である。ついに村役人を召して打ち首にするぞと言い出された。この時一人の老僧が現れて、「もとは鴨部の庄たるや南に山なく御所に適地でしたが、昨夜甑中一山が隆起しこんなに狭くなりました。主上、そうお怒り遊ばすな」と言上したところ、上皇様も漸く得心し、打ち首を免字なされたと言うはなしである。



甑山と丸一狸

鴨部平野の南に甑山(こしきやま)という小高い山がある。山腹に小祠があって奥津彦と奥津姫の二神を祀ってある。
むかしこの山裾の川田という地区に、貧乏なおじいさんとおばあさんが住んでいた。正月というのに餅を搗く米もなく可愛想な二人であった。
ある日、おじいさんが野良から戻る道端で一枚の小判を拾った。正直者のおじいさんは家に持ち帰らず、この祠に供えて帰った。神様はこの正直なおじいさんに感心して、丸一という狸を使いに、おじいさんの暮し振りを見にやらせたのである。律義で真面目なおじいさんの性格をよく知っている丸一狸は、この事を神様に報告した。
神様は元日の朝早く丸一狸にお金とお米を持たせ、手紙とともに玄関に置いて帰らせたのである。これを見つけた老夫婦はびっくり。「これはどうしたことか」と、ただ「もったいない」、「ありがたい」と大喜び。こうして二人は温かい正月を迎えたと言う。正月の餅を搗くことを「こしきする」といい、「甑山」の名もこの伝説から付けられたという。



経文を沈めたお経が渕

鴨部ワラヤから東へ三百メートル。記念碑の南に「お経が渕」という地名が残っている。
平安のころには上野山から馬次にかけ、多くの寺院・堂搭が立ち並び、さながら佛都にも似た賑わいを見せていた。長福寺、大覚寺、極楽寺を中心に、中でも極楽寺には仏僧を教える談義所(学問所)まで併設されて異彩を放っていたと言われる。その頃鴨庄地区は深い入江で、鴨部平野の中ほどまで続き、川古前あたりは葭の生え茂る沼地をなしていた。
其の頃の交通は海をたどるほかはなく、従って奈良、京都からの交通は総て船を利用し、往来する僧侶たちも、都から瀬戸内海を渡り長浜湾に入り、新開—岩渕—横井渕を経て、東山の寺院へと船旅の道を辿ったのである。
或る時布教のため経文を船に積み、極楽寺へ向う途中、船が転覆して経文数百巻を沈めた。この沈めた所を「お経が渕」といい、いまにこの伝説が伝えられている。近くの下張には岡(船の発着場)というところがあり、お経が渕の直ぐ東に「山王門」と呼ぶ地名が或る。どれも仏縁からきた呼び名であろう。



鏡岩のやまんば

鴨部六番の山腹に百畳敷も有りそうな平らな岩がある。岩面はいつも清水が滴り、朝日が指すと鏡のように輝くので岩という名が付けられている。
むかしこの近くに山姥が住んでいた。子供が言う事を聞かなかったり、悪い事をすると親達は口を揃えて「山姥に言いつけるよ」と、脅し文句に使われるほど、ここの山姥は恐ろしいものといわれていた。
ある日、親不孝で盗み・たかりを常習とする若者が、この山に入りこみ盛んに盗伐をしていた。大きい荷をつくり、したり顔で帰ろうとしたとき、山上から、「一寸待ちなさい。荷物を置いてこちらへ来なさい」と、山姥が声をかけたが受け答へせぬばかりか、どしどし山を降りて行った。山姥が胸を広げたと思うと、そこから乳房がぐうんと伸びて若者に吸いつき、鏡岩の前に立たせたのである。山姥は「お前の悪事は目に余るものがある。人様は知らんが、天道さんはちゃんと知っているぞ。そこで全部白状しなさい」と言っても反省の色を見せない。そこで山姥は、「反省して白状しないのなら、お前の心の顔をみせてやろう」と呪文を唱えると、目の前の鏡岩に口が裂け、目がとがり、髪は伸び、青い顔をした、まるで夜叉のような自分の姿が映し出されているではないか。若者は驚きの余りその場に失神した。
気がついておきあがったとき山姥は「これがお前の本当の姿であるぞ」と諭すと、若者は「二度と悪事はしません」と誓ったという。



横向き鴨部八幡

鴨部の八幡さんは昔から霊験あらたかな神様として庶民の信仰の的となっていた。神社はたいてい氏子に向って鎮座して居るが、ここの神社に限って横向き(南面)に座っている。もともと東向きであったが、八幡さんの威光が強く、たとえ武士であっても、神の前を横切ろうとすると、忽ちいすくめられてしまう。そこで馬を下り、神様にひれ伏してから通行したという。
いま内間に伏拝神社という小祠がある。ここで一旦下馬し、土下座して八幡さんを伏し拝んでから通行したので、この名が付いているという。厄介なことを嫌うのはいまもそうであるが、いちいち伏して通るのは大変な事で、村人たちが寄り合って、南に向きを変えた。いわば庶民の生活の知恵から出た発想ともいえよう。また、もう一つの話では、或る年村内に病気がはやったとき、神のお告げで南向きに建て直したともいわれている。



鴨部八幡の御幣持ちと神輿かつぎ

鴨部八幡のご神霊は、小田釜井谷の蛇谷へ上陸した。釜居谷の里人は現在の山の神社に祀った。その後、別の祠を建てて祀ったのが照面神社であるが、このご神霊は海を嫌われるので、大空(小田の部落の地名)へ移ってしばらくこの地に留まられた。大空で湯茶の接待を受けられたところからそこを茶園というようになり、現在大須賀勉さんの家の屋号になっている。
ご神霊はそこから鴨部東山相仙寺を経て中筋に至り、百姓家で休憩中玄米がゆの接待を受けた。その家(鏡原文雄さん)に本所の屋号を与えて、西山の現在地にお移りになったといわれている。
そんな訳で、鴨部八幡宮のご祭礼には「茶園」と「本所」の家が代々ご幣持ちを勤め、み輿担ぎは釜居谷・坂ノ下地区に決められているということである。
なお隠居した鴨部八幡は、いま、鴨庄横井西方寺の上に「隠居八幡宮」として祀られている。