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① さぬき市細川林谷記念館 |
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細川林谷は、江戸時代後期に現さぬき市寒川町石田東森広に生まれ、篆刻家としてその才を発揮し、江戸で一、二を争う篆刻家として名をはせた。
2020年(令和2年)細川林谷の兄(太左衛門)の子孫で、三重県伊賀市にある日合通信電線株式会社会長の細川勝博氏・同社長の細川周作氏より、林谷を顕彰するとともに、さぬき市の芸術文化の振興に役立ててほしいという篤志により、当市に3億円の御寄附をいただいたことから、細川林谷記念館の整備が進み、2024年(令和6年)10月に開館した。
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② 林谷山人之碑(B&Gプール前):裏面の碑文 |
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当町出身の飯田為三郎氏が在京中細川林谷の名声は郷土に於けるより寧ろ東京で高いと先輩から聞き、細川林
谷顕彰碑の建立を決意し昭和17年親交のあった徳富蘇峰先生に依頼して林谷山人に相応しい碑銘を揮毫して頂
いた。その後大東亜戦争のため飯田市は建碑の志を達せずして他界植村芳高氏がその遺志を継ごうとしたが意の
ままにならなかった。
このたび林谷山人の崇敬者 川田方士氏 植村正廣氏 古川雅章氏らの熱意により寒川町議会もこれを賛同
寒川海洋センターの落成を期に之を建立した。時あたかも細川林谷百四十年祭の年である。
昭和58年4月吉日 寒川町長 児玉 勇一
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③ 細川義平墓(林谷の父:光明寺)の裏面の碑文(讃岐史談 参照) |
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先人以文化乙(きのと)亥(い)(1815)年2月22日卒
文政己(つちのと)丑(うし)(1829)歳余在﨑陽令清人朱柳橋書碑面字
今茲庚(かのえ)寅(とら) (1830)秋与兄太同建之 林谷潔誌
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④ 細川林谷山人之墓(光明寺)の裏面の碑文 |
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<彦山図自画賛>
彦山獨立壓羣山 二十年前已得攀
馬上囘看無一句 白頭人對白雲還
天保14年6月19日没 享年65才
昭和58年9月吉日 建立
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⑤ 林谷山人生地之碑(森広)の裏面の碑文 |
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昭和18年中秋
高松市 廣瀬 淩太郎 石田村 有馬 清平 |
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⑥ 伝寒川清水・ ⑦ 西行法師歌碑 |
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石田高校の正門西側のある泉水で、寒川郡の郡名がこの「寒川清水」から起こったとも云われている。古く
から涸れたことのなく、西行法師が、白峰寺参拝の折に、この泉でのどを潤し、樹陰で休息したときに詠んだ
とも伝えられる和歌が新古今和歌集に残っている。
「道の辺に 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ」 |
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21世紀館さんがわ<さぬき市文化資料展示館> / さぬき市細川林谷記念館 |
さぬき市寒川町石田東甲927番地2 / さぬき市市寒川町石田東甲931番地
℡(0879)43−0780 / (0879)43-0655(令和6年10月1日より) |
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