日時 平成25年11月26日(火)
さぬき市古墳勉強会第25回見学会
見学地
播磨灘
石の宝殿と加古川南部の首長墓地図
宮城県塩竈神社の塩釜、宮崎県霧島神宮の天の逆鉾
とならんで日本三奇の1つに数えられています。
ご神体の巨石は俗に浮き石とよばれており、高さ5.7m
幅6.5m、奥行7.3mあり、重さは推定465tになります。
社伝には大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命
(すくなひこなのみこと)が一夜にして宝殿をつくろう
としたが、阿賀の神一行が反乱をおこし、それを鎮圧
するために未完のままになったものとあります。
一方、『播磨国風土記』には聖徳太子の時代に弓削大連
(物部守屋)がつくったと記されています。
類例のないもので製作の目的、用途は不明ですが、これ
までに石棺の未成品とする説、天文観測用の占星台とする
説、火葬の骨蔵器をおいて外容施設、横口式石槨、などが
指摘されています。
横口石槨の例
播磨風土記の記載
上から見た図
横から見た図
シーボルトの見た
石宝殿
「日本」より
「西遊旅譚」による石宝殿
司馬江漢
「山水奇観拾遺」
による石宝殿
渕上旭江
生石神社
播磨名勝図絵明治26年
中谷与助
大阪府安福寺 香川県鷲ノ山産
京都府茶臼山古墳 阿蘇の溶結凝灰岩
6枚の加工した板石を組み合わせています。長持の形に似ていることから長持形石棺と名づけられました。
長持形石棺の多くは播磨からもたらされました。5世紀頃に開発された竜山石と呼ばれる石材が使用され、特に、畿内地域を中心として運ばれ、中央と密接な関係をもった石材工場と考えられます。
京都府久津川車塚古墳の長持形石棺
明治27年(1894)に発見されました。
長持形石棺の分布
奈良県
水泥南古墳(みどろ)
(6世紀末〜7世紀初)
奈良県
菖蒲池古墳
(7世紀前半)
奈良県
小谷古墳
(7世紀前半)
山口県
大日古墳
奈良県
条ウル神古墳
(じょううるがみ)
(6世記中頃)
竜山石製の家形石棺
⇒畿内地域、近江、
山陽道の西部(広島・山口)
畿内中枢の主要な古墳で発見
二上山の白石(凝灰岩)の石棺に似ている
五色塚古墳
兵庫県古墳ランキング
通称千壷山(せんこやま)と呼ばれる兵庫県最大の前方後円墳で全長は194mになります。古墳時代前期後半に築造されました。
墳丘の築造は、北から南に向かって下るかなりの傾斜地に盛土によって築かれています。3段からなり、最下段は地表面を掘り込んで周濠を造っています。
周溝内には東側のくびれ部付近に1辺20mの方形の盛土が造られ、後円部東の周溝内には15.5×8mの方形に近いマウンドが見られます。このマウンドからは2基の円筒棺が発見されています。
このように周溝の中にマウンドが造られている例として群馬県保渡田八幡塚古墳や大阪府津堂城山古墳が挙げられます。
本体の築造に伴って造られた陪塚か、元々あった古墳を取り込んだ可能性が考えられます。
なお、周濠の西側には小壷古墳という直径67mの大円墳があり、周辺にはかつて数基の古墳のあったことが伝わっています。
葺石の石材は淡路島から運ばれた可能性がつよいといわれています。
『日本書紀』には「播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路島にわたして、其の嶋の石を運びて造る」とあり、興味深い問題です。
埋葬施設については石棺の存在が指摘されていますが、詳細は不明です。
兵庫県内で3番目に大きな前方後円墳です。全長は約140mです。周濠が墳丘を巡り、後円部の頂上には長持形石棺が露出しています。墳丘は3段に築造され、円筒埴輪を巡らしています。築造は古墳時代中期になります。
陪塚は数基あったと云われていますが、現在は2基が残っています。北方にある山之越古墳は1辺50mの大きさを誇る方墳で、墳頂部には長持形石棺が露出しています。