日時 平成24年9月22日(土)
さぬき市古墳勉強会第23回見学会
国分寺六ツ目古墳(香川県教育委員会ほか1997『国分寺六ツ目古墳』から転載
墳形は前方後円墳で国分寺町では唯一です。全長は平成元〜2年(1989〜90)度の発掘調査で全長21.4mであることが確認されました。香川県内では最小規模の前方後円墳といえます。古墳が造られている場所は標高91.7mの尾根上で、国分寺町の平野を一望できる場所です。
発掘調査によって墳丘の各所から土器がたくさん出土しました。土器には広口壺や小形鉢があります。土器の形、副葬品の特徴、墳丘の構造など、総合的な検討から古墳が造られた時代は古墳時代前期初頭、4世紀前半頃と考えられます。
前方後円墳の形は前方部が低いバチ形をしており、地元香川の古墳の特徴が指摘されます。また、墳丘は自然の地形を削り出して造られ、後円部のみ厚さ60㎝ほどの盛土が見られます。墳丘裾には10〜30㎝の花崗岩が多数あります。ただし、石材は墳丘全面にはなく、墳丘裾を鉢巻状に取り巻いています。よって葺石ではなく、列石として評価されています。
埋葬施設は後円部頂部で3基確認されました。3基ともに構造が異なります。それぞれ竪穴式石室、粘土槨、箱式石棺です。
竪穴式石室は長さ約3.1m、幅0.4mで主軸はN−61°−Wで東西主軸です。粘土槨とともに前方後円墳の主軸に対して斜めになっており、地元香川の古墳の特徴が指摘できます。石室に使用されている花崗岩は古墳周辺で採集可能なものです。安山岩は使用されていません。棺は粘土床の形から長さ2.97mの割竹形木棺が推測されます。副葬品には鉄剣1、鉄斧1、ヤリガンナ1、鉄刀1、刀子1が出土し、西側からは広口壺の完形品が埋納されていました。
粘土槨は竪穴式石室にほぼ主軸を揃えて構築されています。竪穴式石室構築の後、短期間のうちに追葬されたと考えられます。床面の粘土から棺は長さ2.9mの割竹形木棺であったと推測されます。
箱式石棺は竪穴式石室の後に追葬されたものです。長さ0.56m、幅0.18mの小型で子供の埋葬が推測されます。石材に安山岩が使用され、石棺の周囲には花崗岩の礫敷を行い、棺底にも敷石をするなど丁寧な構造になっています。
香川県教育委員会ほか1997『国分寺六ツ目古墳』
蔵本晋司 2005「古墳時代」『さぬき国分寺町誌』
墳丘測量図(右側)
(香川県教育委員会ほか1997
『国分寺六ツ目古墳』から転載)
"国分寺六ツ目古墳出土広口壺
丸井古墳出土広口壺
昭和初期の石切場跡
国分寺町誌編纂委員会2005
『さぬき国分寺町誌』から転載
鷲ノ山(わしのやま)は石英安山岩の産地で、古墳時代、さぬき市火山とともに刳抜式石棺の生産地として有名です。
この石材を使用した製品は室町時代の供養塔にいくつか事例が見られ、江戸時代中頃になると墓石等、盛んに使用されるようになります。
現在も麓には数件の石材業者がいます。現状では古墳時代当時の採石地を断定することは困難です。
鷲ノ山の麓に石舟天神社があり、神社拝殿の北側に刳抜式石棺の棺身のみが保管されています。
この石棺は明治42年(1909)まで石舟天神社の南900mの石舟池北畔の水田畔斜面部(現在
のB&G海洋センターのプール付近)にありました。古い記録では文政11年(1828)の『全讃史』、嘉永6年(1853)の『讃岐名勝図会』に記載が見られます。
刳抜式石棺は古墳から発見されることが多いのですが、三谷石舟天神社石棺の保管されていた場所の周辺には今のところ前期古墳は知られていません。
この石棺は石舟池の築造、もしくは周辺の田畑の開墾に伴って発見された可能性があります。近くに鷲ノ山の採石地があることから解釈すると、古墳時代に池付近に石棺製作の工房があって、この石棺は製作地に残されたものである可能性が考えられます。
ではなぜ製作地に残されたのでしょうか。渡部明夫氏はこの石棺が製作途中で一部が破損したため、完成を見ずに放棄された未製品であると指摘されています。その根拠として他の鷲ノ山の石棺に比べて分厚いつくりであり、外面に凸凹を多く残し、刳り込みが中途半端(表面が平滑ではなく、頭部に比べて足部が浅い)点を挙げています。
この石棺は昭和45年(1970)に町指定文化財になっています。
鷲ノ山石の刳抜式石棺は高松平野から丸亀平野を中心に8棺が知られています。また、香川県外にも大阪府安福寺にあり、また、大阪府松岳山古墳からは刳抜式石棺ではなく、組合せ式石棺の側壁材として使用されています。
蔵本晋司 2005「古墳時代」『さぬき国分寺町誌』
渡部明夫 1995「香川の刳抜式石棺」『古代王権と交流』
石舟天神社刳抜式石棺
(蔵本晋司 2005「古墳時代」『さぬき国分寺町誌』から転載)
鷲ノ山石と火山石の刳抜式石棺の広がり
(蔵本晋司 2005「古墳時代」『さぬき国分寺町誌』から転載)
香川県高松市国分寺町福家
墳丘
国分寺町誌編纂委員会
2005『さぬき国分寺町誌』から転載
内部の様子(奥壁)
堂山山塊の南部の斜面部にある古墳です。「山内村史」によると「石が鼻地神一帯に亘りて多数の古墳あり。」と複数の古墳の存在を伝えていますが、現在は開発による破壊のためほとんど見ることができません。
墳丘は径12mほどの円形の墳丘が残されています。
南に横穴式石室が開口しています。玄室は完存していますが(長さ4.17〜4.26、幅1.87〜2.08)、羨道は長さ2.4mほどが残存しています。石室に使用している石材は花崗岩です。奥壁は大型石を3石横積みしています。玄門は方柱状の立石が見られ、玄門幅が羨道幅とほぼ等しい畿内型の構造になっています。羨道の天井は玄門の天井よりも高く、楣(まぐさ)構造をしています。
古墳からの出土遺物は全く伝わっていません。石室の形から古墳時代後期後半、6世紀後半代の築造の可能性が推測されます。
現在のところ、この古墳は国分寺町内で唯一石室の内部が判明している古墳です。昭和45年(1970)に町指定史跡になっています。