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日時 平成23年5月21日(土)

さぬき市古墳勉強会第回見学会

池上曽根遺跡・難波宮跡

難波宮跡周辺航空写真

見学地



大坂の地形

縄文時代中期頃(約5000〜4000年前)

縄文時代中期頃(約5000〜4000年前)

古墳時代中〜後期ごろ(5〜6世紀)

古墳時代中〜後期ごろ(5〜6世紀)


池上曽根遺跡

弥生時代の巨大環濠集落で、南北1.5km、東西お。6kmの範囲に広がる遺跡の総面積は約60万㎡。弥生時代中期には、南北300m、東西400mの大規模な環濠がめぐっていたと推定されている。
調査では、集落の中央に桁行約20m、梁間約7m、床面積135㎡で、柱の太さが60㎝もある巨大な掘立柱建物が配置され、その建物の南には1本の丸太を刳り抜いた直径2m程もある枠を持った井戸が掘られていたことが明らかとなる。
この集落は、弥生前期〜後期(300BC〜200AD)にかけて営まれ、二重から三重の環濠に囲まれた拠点集落と考えられる。

弥生中期後半の池上曽根遺跡概念図

弥生中期後半の池上曽根遺跡概念図

大型掘立柱建物跡と井戸跡

大型掘立柱建物跡
と井戸跡



池上曽根遺跡の主な遺構

復元された建物「いずみの高殿」

復元された建物「いずみの高殿」と弥生井戸

復元された建物
「いずみの高殿」
と「弥生井戸」

大型建物は壁のない高床建物で、屋根裏が二階になった屋根倉形式といわれる形で復元された。
出土した土器に描かれていた弥生時代の建物の絵をもとに全体の形が決定され、建物の両側には、池上曽根遺跡の成立や日々の生活の様子を、色鮮やかな木彫りのレリーフで表現している。
建物の柱には、直径50〜60センチのヒノキの大木が使われていた。 26個の柱穴のうち柱根が17本残されていて、平成8年(1996)に奈良国立文化財研究所が年輪年代法で鑑定した結果、この内の1本の伐採年はBC52年と判明した。
弥生時代の年代を西暦で示すことができた画期的な例として脚光を浴びる。(見学のポイント)

池上曽根遺跡新聞記事 年輪年代法

年輪年代法 新聞記事


大阪歴史博物館

難波宮(なにわのみや)史跡公園の北西端に2001年開館する。 館内は10階から7階が常設展示場で、見学者はエレベーターで一気に10階まで上がり奈良時代の大阪「難波宮」にタイムスリップ!! そして階を降りる毎にわれわれの暮らす現代へと戻ってくるというものです。 地下ギャラリーにて発掘され、保存されている「難波長柄豊崎宮」遺構の現場を見学することができます。(研修の目玉) なお、当日は15:00より学芸員のガイドツアーによる見学会を予定(約40分)。

難波宮跡(なにわのみやあと)公園

古代日本の都と宮
難波宮跡と四天王寺の位置

難波宮跡と四天王寺の位置



後期難波宮の遺構

後期難波宮の遺構
 

大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)大坂市立大学、山根徳太郎教授の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。 史跡は2種類の方法で示され、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示したものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。



古代の都の年表

古代の都の年表1

古代の都の年表2


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