日時 平成21年9月12日(土)
さぬき市古墳勉強会第17回見学会
草戸千軒町イメージ
(広島県立歴史博物館)
見学地
草戸千軒町遺跡全景
昭和61年(1986)、第36,37次発掘調査。愛宕山の山裾が川の間近にまで迫り、木々の間から、明王院五重塔と本堂が顔をのぞかせている。中州に架かるのは法音寺橋。
江戸時代中期の地誌、『備陽六郡志』に寛文13年(1673)の洪水で草戸千軒と呼ばれる千軒の町屋が押し流されたと書かれている伝説の町は、昭和初期に墓石や陶磁器、お金が出土したことにより、次第に明らかになっていった。
第二次世界大戦後の昭和36年に最初の発掘調査が行われ、遺跡の存在が明らかとなった。昭和40年の3回目の調査で中世(鎌倉時代〜室町時代)の町並みがそっくり埋もれていることがわかり、「埋もれた中世の町発見」と学界の注目するところとなった。
昭和42年になり、遺跡のある芦田川が一級河川に昇格し、芦田川の災害復旧工事と河川改修工事が計画され、遺跡が破壊されるおそれが生じた。以降、工事が遺跡の保存かで意見が対立し、「人命が大切か、遺跡が大切か」という極論にまでなった。
結局、発掘調査を行った後に工事を行っていくことで決着し、昭和48年から平成3年までの18年の歳月をかけて発掘調査が行われた。
草戸千軒町遺跡は川底に埋もれているため、遺跡保存は不可能であったが、出土遺物を保存し、公開展示するために広島県立歴史博物館が建設された。
草戸千軒町並模型(60分の1)
埋没した中世の町である。川床に遺跡が存在することもあり、腐りやすい木製品もよく残っており、当時の人々の習慣や信仰をはじめ、さまざまな当時の生活の様子が判明したことで貴重な遺跡である。現在につながる生活道具や習慣もあれば、今の私たちにはなじみのないものもある。今と比較しながら展示品を鑑賞すると面白い発見があるかもしれない。
伝承では1673年の洪水で突如として埋没したことから、「東洋のポンペイ」といわれているが、これまでの発掘調査の成果からは、室町時代の終わり頃には町は衰退していたようである
草戸千軒町遺跡遠景
遺跡は広島県福山市街地の西にある。遺跡のまわりには市街地が広がっているが、これら平野のほとんどは江戸時代から後に埋め立てられた干拓地である。
江戸時代の前、草戸千軒町遺跡の頃は山の近くまで海が入り込んでいたと考えられる。遺跡は比較的安定した三角州上であったと思われるが、周囲は洪水や海水の影響を受けやすい荒地が広がり、一面の葦原だった可能性がある。
推定される中世の海岸線
このような悪条件の場所ではあったが、地理的には交通の要所でもあった。芦田川の河口に近く、福山湾の要所であり、瀬戸内海の海上交通と西側の尾道に抜ける陸上交通が交差する場所なのである。さまざまな商品が集まる場所、中継する場所として重要な地点であったといえる。
物流の要所
遺跡からは備前焼や常滑焼など様々な地域の焼物が出土している。
元々、生活に悪条件の場所であったということは、無主・無縁の地であった可能性があり、そのような場所だからこそ、自由に人々が集まってきた可能性がある。
遺跡から出土した五輪塔、宝篋印塔などの石造物は広島県立歴史博物館と遺跡の西にある明王院境内に保管されている。これら石造物の産地は周辺地域の石造物から見て特殊である。
遺跡から西の尾道には花崗岩で作られた石造物が広島県内に広く流通している。一方、遺跡の東の岡山県笠岡市付近は石灰岩で作られた石造物が見られる。
遺跡のある地域は花崗岩の製品と石灰岩の製品の中間地点に当たる。
面白いのは遺跡から出土した石造物の半数は花崗岩の製品でも石灰岩の製品でもなく、愛媛県と香川県で作られた製品であるということ。近くの石造物を取り寄せるのではなく、わざわざ遠くの石造物の取り寄せている点に草戸千軒町遺跡の石造物の特徴がある。花崗岩の石造物も一定量は見られることから、様々な産地の石造物が集まった場所といえる。
明王院には瀬戸内海にはまず運ばれることのない、奈良県の石造物もある。このような石造物のあり方の背景は、瀬戸内海海上交通の要所であったという点と、石造物文化圏の境界であるといった特徴的な場所であったことが考えられる。
なお、明王院に保管されている石造物の半数はさぬき市火山の石造物である。
石造物の流通
層塔
奈良県二上山産
(明王院)
宝篋印塔
香川県天霧石産
(資料館)
明王院の石造物群
相輪伏鉢(複製)
貞和4年(1348)
常福寺(現明王院)五重塔