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日時 平成21年6月6日(土)

さぬき市古墳勉強会第15回見学会

東かがわの古墳

見学地



原間6号墳出土短甲

原間6号墳出土短甲

原間6号墳出土鉄製品

原間6号墳出土鉄製品


原間地区の古墳と遺跡

四国横断自動車道建設に伴う発掘調査によって多くの古墳、遺跡が判明しています。まず、弥生時代の集落は原間インター付近で発見されています。そして、弥生時代のお墓は、原間遺跡から西に塔の山遺跡・塔の山南遺跡があり、原間遺跡の東に樋端遺跡があります。樋端墳丘墓では長さ2.5㍍の竪穴式石室が見つかり、弥生時代の権力者のお墓と推測されます。
 古墳時代前期は原間遺跡の北東で大日山古墳が造られますが、大日山古墳よりも少し古い段階の集落が原間遺跡で見つかっています。
 古墳時代中期、富田茶臼山古墳が造られた後の時代には原間に古墳が造られます。原間3〜10号墳です。原間6号墳は埋葬施設に木槨をもち、中から三累環頭大刀(さんるいかんとうたち)が出土し、朝鮮半島との関わりが推測されます。古墳時代中期の集落は原間3〜10号墳のある尾根にはさまれた谷で見つかっています。古墳に葬られている人物の集落であった可能性があり注目されます。
 古墳時代後期に入ると原間には古墳、集落ともに見られなくなります。再び古墳が造られるのは古墳時代後期の後半です。6世紀末から7世紀前半にかけて集落、古墳が見られます。古墳は原間1号墳、原間2号墳です。
 集落は原間遺跡で奈良時代の前半まで見られますが、後半になるとなくなります。原間遺跡で集落が見られなくなる頃に出現するのが南海道沿いにある坪井遺跡です。このような現象について、古代の幹線道路が樋端−原間ルートから南海道の方に移ったという意見があります。
 原間地区の歴史は近年の発掘調査によって少しずつ明らかになってきています。弥生時代のお墓がたくさん見つかったこと、朝鮮半島との関係が想像される古墳が発見されたこと、古墳に眠る人物が住んでいたと思われる集落が見つかったこと、などです。また、古墳時代後期前半は今のところ遺跡は見つかっておらず、また、奈良時代後半以降は遺跡が消えてしまいます。近くに発見されていない遺跡があるのか、人の動きに変化があるのか、興味深い問題です。
 しかし、こうした原間の遺跡もほとんどが四国横断自動車道や土採り事業によって消滅しており、今唯一残されているのが原間1号墳です。原間地区の歴史を語る遺品として大切にしていきたいものです。


原間地区の古墳・遺跡位置図

原間地区の古墳・遺跡位置図


樋端遺跡位置図

樋端遺跡位置図

原間1号墳

谷の山裾にある直径12㍍ほどの円墳です。南に開く横穴式石室があります。横穴式石室は羨道が一部破壊されており、現存長で約7㍍です。羨道部から見て左側の袖石の突出した片袖の石室で、奥壁は巨大な1枚岩、玄室の天井は3枚の石からなります。石室に使用された石材は花崗岩で、石の大きさは玄室と比較して羨道部の方が小さいです。
石室内からは7世紀前半頃の須恵器が出土しています。また、中世の瓦器椀(がきわん)や瓦、鉄器が出土しており、中世の段階で石室が開けられ再利用されていることがわかります。
原間1号墳は昔、原間古墳と呼ばれていましたが、近くで新たな古墳が発見され、1号墳と呼ばれるようになりました。また、平成10・11年の四国横断自動車道建設の事前調査でさらに8基の古墳が発見され現在原間10号墳まで発見されています。   

原間1号墳横穴式石室図

原間1号墳横穴式石室図

原間1号出土須恵器片

原間1号出土須恵器片


大日山古墳

  香川県で一番東にある前方後円墳です。標高53㍍の尾根上にあります。全長38㍍、後円部径20㍍、後円部高3㍍です。前方後円墳の形は前方部が曲線を描いて広がる『バチ形』のタイプが香川県では多いですが、大日山古墳はそのような形ではなく、直線的に延びる『柄鏡形(えかがみがた)』をしています。この形は岩崎山4号墳と同じです。後円部の頂上には基壇の上に名前の由来となった大日如来が祀られていますが、基壇の石材には安山岩の板石が見られ、竪穴式石室の石材の可能性があります。また、大日山古墳には刳抜式石棺の伝承がありますが、石材が火山の凝灰岩である可能性が指摘されています。
大日山古墳は海からは見ることはできませんが、南は旧白鳥町と旧大内町の交通路であり、交通の要所に造られた可能性があります。この道沿いには大日山古墳の東に平安時代の寺院跡である高松廃寺があり、長い間、幹線道路の一つとして機能していたことが窺われます。なお、大日山古墳が旧白鳥町と旧大内町の町境になります。  

大日山古墳墳丘測量図

大日山古墳墳丘測量図

前方後円墳の形(バチ形と柄鏡形)

バチ形と柄鏡形


藤井古墳

藤井集落の西側、山裾の竹林内にある直径12〜14㍍の円墳です。墳丘の南東に開口する横穴式石室があります。藤井古墳の横穴式石室の特徴は、玄室と羨道の境の袖石の突出がわずかで、両袖式ですが無袖式に近いことです。出土遺物は少量のため築造時期は明確ではありませんが、両袖式が退化した石室と考えられ7世紀頃の築造が推測されます。  

藤井古墳石室実測図

藤井古墳石室実測図

無袖式石室 さぬき市陰裏号墳

無袖式石室 さぬき市陰裏号墳



藤井古墳周辺遺跡位置図

藤井古墳周辺遺跡位置図


川北古墳

引田地区には古墳が少なく、現在判明している確実な唯一の古墳です。昭和58年、引田町史編纂事業の一環として発掘調査が実施されました。
 川北1号墳は古墳時代後期の古墳で標高60〜80㍍の山上にあります。古墳時代後期の古墳は一般的に山裾などの比較的低い場所にあり、珍しい立地をしているといえます。埋葬施設は東に開く横穴式石室です。石材は礫岩、砂岩が使用されています。これらの石材は引田地区に見られる石です。石室の積み方は基礎に大型の石を使用しています。玄室と羨道の境は両袖式になっています。
 石室の中からはたくさんの須恵器が出土しました。須恵器の形から7世紀初頭に築造された古墳とわかります。
 川北1号墳の麓の引田インターは川北1号墳からおおよそ100年後の奈良時代前半の建物跡の見つかった川北遺跡があります。  

川北1号墳石室実測図

川北1号墳石室実測図


川北遺跡周辺の遺跡分布図

川北遺跡周辺の遺跡分布


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