日時 平成21年4月5日(土)
さぬき市古墳勉強会第14回見学会
見学地
吉備津神社は備中国唯一の大社です。現在では吉備津彦を主神として8柱の神を祀っています。古代では吉備津彦神社と呼ばれていましたが、12世紀以降に備前国の一の宮として吉備津彦神社が成立したため、これと区別するために吉備津神社と呼ばれるようになりました。
現存する社殿は応永32年(1425)の室町時代に再建されたものです。比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)という独特の構造をもち国宝に指定されています。
もう一つ本殿で注目されるのは天竺様(大仏様)の建築様式が取り入れられていることです。同じ建築様式は東大寺にあります。鎌倉時代初期、東大寺再建に取り組んだ重源が造営中であった吉備津神社に訪れており、その際に東大寺とおなじ天竺様式の建築様式が取り入れられたようです。
吉備津神社のある「吉備の中山」は岡山平野と総社平野という古代の重要な2つの拠点地域をつなぐ位置にあります。吉備は古墳時代の後に備前、備中、備後に分けられますが、備前と備中の境界は中山を2分して設定されています。その境界線状に吉備津彦の墓として宮内庁の陵墓になっている中山茶臼山古墳があります。
こうもり塚古墳の墳丘と横穴式石室図
全長が100mの前方後円墳です。古墳の造られた時代は古墳時代後期です。
後円部に南向きに横穴式石室があります。横穴式石室は全長20m近くあり、玄室は長さ8m、幅3.5mと巨大です。大きさは巨大横穴式石室で有名な石舞台古墳とほぼ同じです。
岡山県内では巨大な横穴式石室が3基知られています。(①こうもり塚古墳(全長20m)、②箭田大塚古墳(全長19m)、③牟佐大塚古墳(全長18m)、)
石室の玄室内には家形石棺があります。石棺に使用されている石材は岡山県西部の井原市で採れる貝殻石灰岩です。岡山県内で使用されている家形石棺20基のうち貝殻石灰岩が使用されているのはたった5基のみであり、吉備地域でも特別な古墳だけが使用しているようです。
こうもり塚古墳の東には備中国分尼寺跡、西に備中国分寺跡があり、さらに北西には備中国府跡の推定地があり、奈良時代以降も備中の中心地であったことがわかります。
また、造山古墳、こうもり塚古墳、備中国分尼寺跡、備中国分寺跡に隣接して東西に古代の幹線道路である山陽道が走っています。
造山古墳全景
造山古墳は吉備最大の古墳です。全国的にも4番目に大きな古墳で、前方後円墳の全長は360mあります(富田茶臼山古墳の2.5倍)。
古墳が造られたのは古墳時代中期前半(5世紀前半)で富田茶臼山古墳と同じ頃です。
吉備では古墳時代前期にはたくさんの大型の前方後円墳がありましたが、造山古墳の頃になると大きな古墳はほとんど見られなくなります。
これは、造山古墳の王に権力が集中していったためと考えられます。
墳丘は三段からなり、各段には円筒埴輪が巡らされていたようです。
後円部の頂には土塁の跡がありますが、豊臣秀吉による水攻めのあった頃の陣の一つではないかといわれています。
後円部の埋葬施設は発掘の記録がなく不明です。前方部の頂上にいくと小さな社があり、そこに刳抜き(くりぬき)の石棺があります。前方部から出土したという伝承がありますが真偽は明らかではありません。注目されるのは、この石棺の石が九州の石ということです。九州の王との関係が想像されます。
造山古墳の南には榊山古墳(さかきやまこふん)や千足古墳(せんぞくこふん)があります。
榊山古墳は朝鮮半島南部の伽耶地域の土器が採集されており、また、日本では他に例のない馬形帯鉤(うまがたたいこう)が出土しています。
千足古墳では九州の特徴をもつ横穴式石室で、そこに使用されている石材も九州の石が使用されています。このように朝鮮半島や九州との関係を知ることができます。
榊山古墳出土の馬形帯鉤
直弧文の拓本
千足古墳の石障に描かれていた
作山古墳は吉備で2番目に大きな古墳です。全長285mの前方後円墳で全国でも9番目に大きな古墳です(富田茶臼山古墳の2倍)。築造された時代は古墳時代中期で造山古墳より少し新しいことから、造山古墳の次の王の墓である可能性があります。造山古墳とは3キロ離れていますが、同じ方向に古墳が向いており深い関係が推測されます。なお、備中国分寺、国分尼寺はこの両古墳に挟まれた中にあり、また、両古墳の南には古代に山陽道が見られることから、古墳時代も交通路に面した場所が古墳として選ばれたと考えられます。 作山古墳の次の時代は大きな古墳が見られなくなります。作山古墳の次の古墳は全長120mの宿寺山古墳と全長190mの両宮山古墳があり、中心勢力が2つに分裂したことを暗示させます。さらに古墳時代中期後半(5世紀後半)になると100mを越す古墳は造られなくなります。『日本書紀』には5世紀後半の雄略天皇の時期に吉備一族の反乱とその敗北の伝承が3つも残されています。巨大古墳の消滅と『日本書紀』の反乱伝承とは密接な関係があるようです。
順位 | 古墳名 | 所在地 | 時期 | 墳形 | 墳丘長(m) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 大仙陵古墳 | 大阪府堺市大仙町 | 中期 | 前方後円墳 | 486 | 現仁徳天皇陵 |
2 | 誉田御廟山古墳 | 大阪府羽曳野市誉田 | 中期 | 前方後円墳 | 420 | 現応神天皇陵 |
3 | 上石津ミサンザイ古墳 | 大阪府堺市上野芝町 | 中期 | 前方後円墳 | 365 | 現履中天皇陵 |
4 | 造山古墳 | 岡山県岡山市新庄下 | 中期 | 前方後円墳 | 360 | |
5 | 河内大塚古墳 | 大阪府松原市・羽曳野市 | 後期? | 前方後円墳 | 335 | |
6 | 早瀬丸山古墳 | 奈良県橿原市五条野町 | 後期 | 前方後円墳 | 318 | |
7 | 渋谷向山古墳 | 奈良県天理市渋谷町 | 前期 | 前方後円墳 | 302 | 現景行天皇陵 |
8 | 土師ニサンザイ古墳 | 大阪府堺市百舌鳥西之町 | 中期 | 前方後円墳 | 288 | |
9 | 仲ツ山古墳 | 大阪府藤井寺市沢田 | 中期 | 前方後円墳 | 286 | |
9 | 作山古墳 | 岡山県総社市三須 | 中期 | 前方後円墳 | 286 | |
11 | 箸墓古墳 | 奈良県桜井市箸中 | 前期 | 前方後円墳 | 276 | |
11 | 五社神古墳 | 奈良県奈良市山陵町 | 前期 | 前方後円墳 | 276 | 現神巧皇后陵 |
13 | ウワナベ古墳 | 奈良県奈良市法華寺北町 | 中期 | 前方後円墳 | 265 | |
14 | 市庭古墳 | 奈良県奈良市佐紀町 | 中期 | 前方後円墳 | 250 | 現平城天皇陵 |
15 | 行燈山古墳 | 奈良県奈良市柳本町 | 前期 | 前方後円墳 | 242 | 現崇神天皇陵 |
16 | 室宮山古墳 | 奈良県御所市室 | 中期 | 前方後円墳 | 240 | |
17 | 岡ミサンザイ古墳 | 大阪府藤井寺市岡 | 後期 | 前方後円墳 | 238 | 現仲哀天皇陵 |
18 | 西殿塚古墳 | 奈良県天理市中山町 | 前期 | 前方後円墳 | 234 | 現手白香皇女陵 |
19 | メスリ山古墳 | 奈良県桜井市高田 | 前期 | 前方後円墳 | 230 | |
20 | 市ノ山古墳 | 大阪府藤井寺市国府 | 中期 | 前方後円墳 | 227 | 現允恭天皇陵 |
20 | 太田茶臼山古墳 | 大阪府茨木市太田 | 中期 | 前方後円墳 | 227 | 現継体天皇陵 |
22 | 宝来山古墳 | 奈良県奈良市尼辻町 | 前期 | 前方後円墳 | 226 | 現垂仁天皇陵 |
23 | 墓山古墳 | 大阪府羽曳野市誉田 | 中期 | 前方後円墳 | 224 | |
24 | 佐紀石塚山古墳 | 奈良県奈良市山稜町 | 前期 | 前方後円墳 | 220 | 現成務天皇陵 |
25 | ヒシアゲ古墳 | 奈良県奈良市佐紀町 | 中期 | 前方後円墳 | 218 | 現磐之媛皇后陵 |
主な巨大古墳図