日時 平成20年5月9日(土)
さぬき市古墳勉強会第20回見学会
見学地
徳島県大代古墳刳抜式舟形石棺全景
大代古墳石棺
2000年、四国横断自動車道建設に伴って発見された古墳です。古墳は当初調査されて消滅する予定でしたが、トンネル工法により保存されています。
古墳は全長約54mの前方後円墳です。時代は古墳時代前期後半(4世紀後半)で岩崎山4号墳よりも少し新しい古墳です。
後円部と前方部の先端に接してさらに2つの円墳があり、2・3号墳と呼ばれています。墳丘には葺石が見られますが、全体ではなく、裾に少し見られる程度です。また、様々な埴輪が出土しています。円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土しています。
岩崎山4号墳石棺
埋葬施設は後円部の頂上にあります。南北方向に竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)があります。石棺はさぬき市津田町火山の石材が使用されています。遺物から岩崎山4号墳よりも大代古墳の方が少し新しい時代の古墳ですが、石棺はだいぶん違いがみられます。大代古墳の方は石枕がなくシンプルで四角い形をしているのがわかります。同じような石棺は津田湾の古墳では今のところ見つかっていません。
古墳の東約1kmには木津の地名があり、室町時代の文献(兵庫北関入船納帳ひょうごきたぜきいりぶねのうちょう)に薪の積出港として出てきます。おそらく、古墳時代も海上交通の要衝であったと思われます。
大代古墳は海と深い関わりがある古墳で、かつ、讃岐津田湾岸の王と深い関わりのあった王が眠っているといえます。
宝幢寺裏山の尾根上にあります。全長約42mの柄鏡式(えかがみしき)の前方後円墳です。
柄鏡式前方後円墳とは前方部が先端に向って広がらない、柄鏡の柄のような形をした前方後円墳のことで、代表的なものとして、さぬき市津田町の岩崎山4号墳があります。時代は遺物が不明なためはっきりとしませんが、前方後円墳の形から古墳時代前期と考えられます。
後円部の頂部には歴代住職のお墓がありますが、墓石の下に埋葬施設の一部と考えられる結晶片岩(けっしょうへんがん)の板石が見られます。
古墳は自然の山を削り出して形をつくっています。後円部南の平坦地にかつては円筒埴輪がまばらに樹立されていたといわれます。
宝幢寺古墳
岩崎山4号墳墳丘
昭和54年の墳丘測量調査によって前方後円墳2基を含む11基の古墳から構成されることが明らかになりました。古墳群は尾根上に築かれています。3・4号墳が全長42mの前方後円墳と考えられます。4号墳は礫床(れきしょう=埋葬施設の床に礫(砂利)を敷いたもの)の上に木棺が置いてあったと考えられます。墳丘上からは須恵器が出土しており、古墳時代中期末に造られた古墳といえます。
5号墳は竪穴式石室があり、鏡2面、直刀、勾玉、管玉が出土しています。
6号墳は箱式石棺があり、甲、刀剣が昭和初年に出土しています。
天河別神社古墳群は3・4号墳を中心に造営された有力者の代々のお墓です。大代古墳、宝幢寺古墳が前期古墳であるのに対して、天河別神社古墳群は中期から後期にかけて造られた古墳です。徳島県内で同じ時代に他の地域に前方後円墳はなく、また、古墳時代後期以降は前方後円墳が見られないことから、県内で最後に造られた前方後円墳といえます。
これまでは以上のような内容が考えられてきました。ところが、最近の発掘調査によって評価がだいぶん変わりつつあります。まず4号墳は前方後円墳ではなく、円墳という意見が提出されています。円墳とすると、これまで前方後円墳の前方部と考えられていた場所は4号墳とは直接関係ない場所となり、時代も前期という意見が見られるようになりました。また、3号墳も古墳の形から前期という意見があり、そうなると、これまでの解釈は大きく修正されることとなります。
弥生時代から古墳時代前期の萩原墳墓群や大代古墳、宝幢寺古墳とどのような関係があるのか、今後の研究に期待したいと思います。
天河別神社4・5号墳の銅鏡
積石の弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群(ふんぼぐん)です。弥生時代のお墓があることから、古墳ではなく、墳墓という言葉が使用されています。
萩原1号墓は昭和55・56年に県道工事にともなって調査されました。前方後円墳の原型ともいえる突出部をもったお墓です。
萩原1号墓の墳丘基底部
列石の構築状況
残存部の長さ26.5m
萩原1号墓の石室上面の供献土器
埋葬施設は結晶片岩を使用し竪穴式石室です。上面に白色の小さな石がばらまかれており、それに混ざって讃岐の小型の土器が発見されています。さぬき市津田町のけぼ山古墳や赤山古墳でも後円墳の頂上に白色の小さな石が見られることから、同じような風習があった可能性があります。
2号墓は近年(平成18年度など)発掘調査されています。板を使った墓室と木槨を積石で囲んだ3重構造の埋葬施設が発見されました。同じような構造の埋葬施設は奈良県ホケノ山古墳にあります。ホケノ山古墳は箸墓古墳の近くにある古墳で、箸墓古墳よりも古いといわれています。萩原2号墓はそのホケノ山と同じ時期かやや古い時期といわれており、萩原2号墓がホケノ山古墳に影響を与えたと評価しています。前方後円墳の成立に阿波地域が大きく関わっていることが明らかとなりました。
萩原1・2号墓は2世紀末〜3世紀前半に築造されたと考えられています。積石であることから、讃岐、阿波に見られる積石塚の原型の可能性があり、また、埋葬施設の特徴からは大和の古墳に影響与えた原型であった可能性も指摘されています。徳島という地域史のみならず、古墳の成立を考える上でも重要な墳墓群といえます。
徳島の古墳時代前期の古墳は積石塚が見られること、埋葬施設を東西に向ける事例が多いなど香川の古墳と共通点が多く見られます。このことから最近の研究では四国北東部の古墳として香川と徳島をひっくるめて紹介されることが多いです。
徳島の古墳の流れを見ると、5期(古墳時代中期前半)に一番大きな渋野丸山古墳(全長100m)があります。そして、前方後円墳はほとんどが渋野丸山古墳よりも古い時代、つまり、古墳時代前期に見られます。こうした様子は香川とよく似ています。5期の富田茶臼山古墳が一番大きくて、ほとんどの前方後円墳はそれよりも古いという現象です。
こうした徳島の古墳の中で今回見学した地域は弥生時代後期の2世紀末〜3世紀前半に古墳の原型といえる萩原墳墓群がまず見られます。古墳時代前期前半は天河別神社古墳の解釈によって今後大きく変わってきます。そして、古墳時代前期後半には宝幢寺古墳や大代古墳など全長40〜50mの前方後円墳が見られます。特に大代古墳はさぬき市火山産の刳抜式石棺が発見されており、津田湾の王との関わりが考えられ、興味深い古墳といえます。