2基の古墳が知られています。両方とも前方後円墳と紹介されていますが、はっきりしたことは分かっていません。今後の調査が必要です。この古墳を考える時、周囲の地形、史跡が興味深いです。まず、古墳のある尾根の南には中峠の小道があります。今は荒れ果てていますが、一昔前までは津田との往来に使用されていました。この道のちょうど峠に中峠古墳がありますが、これもはっきりとしていません。時代もはっきりしませんが、古墳時代前期だとすると津田の古墳との比較、関わりにおいて重要になってきます。
古墳の北の尾根には延喜式内社である志太張神社があり、さらに北の谷には極楽寺の跡地があります。これら神社、寺の時代は平安時代ですが、古墳のある場所は交通の要所であり、宗教的にも拠点であったことがわかります。
田中古墳の南は日浦古墳がありますが、不明な点が多いです。また、周辺には他に羽立峠西古墳という鏡の出土した古墳があるようですがこれも所在地も含めて不明です。
田中古墳周辺の遺跡・古墳地図
鴨部平野を見渡せる良好な場所(標高68m)にあります。形は円墳で頂部には2基の箱式石棺(はこしきせっかん)が南北方向に並列していたといいます。2基の箱式石棺が並列したものとしては、他に岩崎山1号墳があります。
昭和45年、子供が発見し、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、勾玉・管玉20個、鉄剣1本、歯3個が出土しました。出土遺物から時代は古墳時代前期と考えられ、津田湾の古墳が盛んに造られていた時代になります。津田地区で全長60m級の中国製鏡の入った前方後円墳が造られていた頃に、鴨部では日本製の鏡が円墳に納められたのです。なお、同じ山中に古墳がいくつかあるようですが(志度町史には1〜3号墳までが載っています)、未調査で詳しいことは不明です。出土遺物は五色台の瀬戸内歴史民俗資料館にあります。
成山1号墳位置図
志度町史には1〜4号墳があると書かれています。東の1号墳は箱式石棺が露出していると記載があり、2号墳は墳丘上に神社が祀られています。3・4号墳ははっきりとしません。多くが前方後円墳として紹介されていますが、詳細は不明で、今後の調査が必要といえます。なお、2号墳は「ごしゃはん」と呼ばれており、また、「ごしゃはん」の上の山は赤山という地名があります。『志度の地名史』(岡村信男著)によるとここに古墳があり、昭和10年頃に発掘されたとあります。御所古墳の南には六番古墳があり、箱式石棺の中に頭蓋骨があったといいます。
御所古墳位置図
鴨部神社の西側にあります。3基の古墳が指摘されていますが、詳細は不明で、これも再調査が必要です。鴨部神社は鴨部八幡宮ともいい、社伝では九世紀の平安時代に創建されたとあります。創建年が正しいかどうかはわかりませんが、神社を創建する際に古墳の存在が意識されていたのか興味深いところです。大川町富田神社古墳は神社のご神体に位置する場所にあり、長尾宇佐八幡は古墳の上に本殿が造られています。また、神前男山八幡宮には寺尾古墳群があり、それぞれ神社創建と古墳の存在との関わりが想像されます。
西山古墳位置図
この古墳も不明な点が多いです。坂子地区に若宮神社があり、かつてこの地が鴨部神社の古宮という伝承があります。境内から銅鏡、土器、千体仏が出土し(大正13年)、本殿の東側では布目瓦が出土しています。また、陶棺(とうかん)も出土しており、坂出鎌田博物棺に保管されています。鎌田博物館には他に鴨部から出土したという円筒埴輪(えんとうはにわ)が保管されていますが、その形は津田町岩崎山4号墳とよく似ており、近い時期が想像されます。今のところ、大型の前方後円墳は見つかっておらず、成山古墳と同様に、津田地区に60mの前方後円墳が造営されていたころ、鴨部では小規模な円墳が築かれていたようです。坂子若宮古墳群の北には坂子古墳があり、1号墳は前方後円墳と考えられています。
坂子1号墳位置図
鴨部不明墳の円筒埴輪
岩崎山4号墳の円筒埴輪
鴨部地区は昭和48年の分布調査記録以降、十分な古墳の調査がされてきませんでした。多くの古墳が前方後円墳と記載されていますが、その真偽は不明です。実際、平成3年に刊行された『前方後円墳集成』の香川県編では、前方後円墳として紹介されているのは坂子1号墳のみです。
古墳の時代を見ると遺物の出土している古墳からは古墳時代前期が想定されます。古墳時代後期の横穴式石室は鴨部では見られず、報告されている古墳の多くは古墳時代前期と思われます。
出土遺物に注目すると、成山古墳の内行花文鏡は日本製の鏡ですが、時代は津田地区の古墳群と同じです。また、坂出鎌田博物館に所蔵されている鴨部出土とつたえる円筒埴輪は岩崎山4号墳の円筒埴輪とよく似ており、山を挟んだ津田地区との何かしらの関係があったものと想像されます。