Last Update 2013/11/28

平成25年度古墳勉強会活動報告

津田支部主管

平成25年度総会


世話役一覧


総会記念講演会

6枚の板石を組み合わせた石棺

6枚の板石を組み合わせた
長持形石棺


●兵庫県高砂市伊保町竜山に産する竜山石は淡緑色あるいは淡黄褐色の流紋岩質凝灰岩で、黒いツブツブがある火山の凝灰岩にくらべて硬いけど、加工はしやすい。古墳時代の石棺材として鷲ノ山(火山)産は前期に、竜山石は中期以降によく使われました。
●舟形石棺(割竹形・刳抜式)は九州では前期・中期でもつづいていましたが、香川県では前期のみで、中期以降に盛んになる長持形石棺と後期の家形石棺 もまだ見つかってはいません。

長持形石棺

長持形石棺
京都
車塚古墳

●長持形石棺は6枚の加工した板石を組み合わせています。中期5世紀頃に開発され、多くは竜山石が使用され、特に大阪津堂城山古墳の石棺など、大阪・奈良・播磨の100mを超える当時の権力者の墓に使われました。
●刳抜式家形石棺は後期から出て来ます。底は真四角で長短はほぼ2対1の比率。一方舟形石棺は底が全体的に丸く、細長いです。
●竜山石製は畿内中枢の主要な古墳で発見されますが、広島三原の貞丸古墳・山口の防府 の大日古墳の石棺にも使われました。


第25回古墳勉強会臨地研修「兵庫の古墳と竜山石」

五色塚古墳(全長194m前方後円墳)

五色塚古墳

五色塚古墳と明石海峡

●五色塚古墳は埴輪のところどころ黒い部分(野焼きの証拠)があること、又透かし穴に△等があること、前方部が岩崎山4号墳と同じ柄鏡形(畿内では少ないが地方では主流)、後円部は富田茶臼山とくらべて前方部より高いこと等から前期後半のものといえます。
●日本書紀の記載によると、朝鮮攻撃の神のお告げに反対していた仲哀天皇(古墳時代中期の応神天皇の父)が九州で急死しました。その長男が明石に仲哀天皇の墓を造るべく、葺石用に淡路の石を使うとして船団をくませましたが、これが反乱とみなされ、征伐されたとあります。確かに頂上の半分に淡路石が使われており、これらのことから仲哀天皇の墓が五色塚古墳だと云われています。


 

石宝殿と竜山石採石場

670年頃制作の横口式石槨か

500トンの浮石?

500トンの浮石?

石宝殿

石宝殿

竜山石採石場

竜山石採石場


 

●播磨の国風土記の記載によると、崩御され仲哀天皇のために神功皇后とともに石棺材を求めた石作連大来は讃岐国の羽若石(鷲ノ石)を求めたが結局、美保山(伊保山)の竜山にたどりついた。
●畿内では古墳時代前期、長大なコウヤマキ丸太を刳り抜いた割竹形木棺が普遍的だが讃岐では前期後葉に火山石や鷲ノ山石という安山岩を刳り抜いた石棺が開発され、河内の大王墓にも採用された。
●中期に開発された長持形石棺では鷲ノ山石ではなく、高砂市周辺で産する竜山石が使われ後期の横穴式石室の家形石棺では、播磨、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がった。
●鷲ノ山近くの綾川町の羽床は風土記の説話の羽若に通じること、竜山石の開発にヤマト王権の濃な関与があったことなどから、讃岐の石工集団が高砂の地に移ったのではなかろうか。

 

第26回古墳勉強会臨地研修「屋島の古墳と古代山城」

 

古代山城 屋嶋城(やしまのき)

 

城門および城壁復元整備完成イメージ

城門および城壁復元整備完成イメージ

城壁復元

城壁復元

●663年に朝鮮半島の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本は、唐・新羅が攻めてくることに備え、中大兄皇子は水城(筑紫)や古代山城の防御施設を西日本の各地に築き、また、九州北部に防人(さきもり)と呼ばれた兵士を配置させた。
●日本書紀には大野城(福岡)や基肄城(佐賀・福岡)の築城において亡命百済貴族が指導に当たったとあり、城の特徴が朝鮮半島の事例に類似することから朝鮮式山城とも呼称されます。
●屋嶋城は『日本書紀』に築城の記述がありましたが、1998年に地元の平岡岩夫氏が石塁を発見し、2002年に城門が確認されるまでは実体がほとんど分かっていませんでした。
城壁は、山頂近くの標高270m自然の崖を外郭線とし、崖の途切れた地点に石塁や土塁が施されています」。
●平成14年に発掘された城門遺構からは、はしごで出入りしたとみられる2・5メートルの段差が見つかり、敵の来襲時にはしごを外して侵入を防ぐ「懸門(けんもん)」と呼ばれる様式と判明した。さらに門のすぐ内側はすり鉢状になっており、侵入した敵を滞留させ、矢を放って撃退する「甕城」という構造になっていた。いずれもともに朝鮮半島にみられる築城技術。こうした様式を伴う石積みの城門が残るのはまれで、当時のまま復元するケースは初めてとなります。—読売新聞サイトー


長崎鼻古墳(全長45.8m前方後円墳)

 

長崎鼻古墳(全長45.8m前方後円墳)

 

●海に突き出た尾根上にあり、海との深い関わりをもって築造場所が選ばれています。
●安山岩の(基底石)の上には20〜30㎝大の安山岩塊石・板石を刺し込むように葺く葺石の構築方法は津田古墳群の岩崎山4号墳等に共通し、非在地的特徴として評価できます。
●立派な墳丘構造が窺えますが、一方でこの時代に一般的な埴輪が全く見られないのは大変興味深い問題であり、長崎鼻古墳の個性が表れています。

舟縁状突帯

舟縁状突帯

●竪穴式石室の中に安置されている刳抜式石棺は舟縁状突帯があり、九州の阿蘇溶結凝灰岩製の特徴が窺えます。
また、石棺の形態からは古墳時代中期初頭の製作が考えられ、讃岐に搬入された阿蘇溶結凝灰岩では最も古い石棺として位置付けられます。
火山石や鷲ノ山石といった地元の石材を使用した石棺から他地域から石棺を調達する時代へと変化したことを示す可能性があります。
●築造年代は石棺の特徴から、さぬき市内でいえば、けぼ山古墳、富田茶臼山古墳の頃になる。


 

第27回古墳勉強会臨地研修「讃岐国府跡周辺の古墳」

 


 

新宮古墳(直径20mの円墳)

玄室から開口部を見る写真

玄室から開口部を見る

 

●横穴式石室は玄室の前に前室のある複室構造。
羨道、前室は奥に向って幅広になっていて、それぞれの部屋を仕 切る石は立石で壁からやや突出させています。玄室は長さ5.5m、 幅2.2m、高さは現状で2.5mです。
石材は基礎に巨石を並べ、その上に石材を持ち送り式に積み上げています。


 

醍醐古墳群

石垣状の石組

石垣状の石組

 

●このうち、3号墳の横穴式石室も新宮古墳と同様に玄室の前に 前室のある複室構造になっています。玄室長約6m、幅2.3〜2.8m で、基礎には巨石を並べ、その上に石材を持ち送り式に積み上げて います。玄室奥壁に使用されている巨石は特に大きく、幅約2.25m、 高さ約2.6mもあります。
●東側の外護列石は石列の内側から石垣状の石組が見つかりました。この石垣状の石組は西側の石組と直線的に繋がっており、方墳の可能性もあります。
●醍醐古墳群からは海を臨むことができます。また、南東には讃岐国府があり、南西の山上には城山跡があります。さらに、古墳群から麓に降りた箇所には醍醐寺跡があります。採集された瓦からは7世紀末から8世紀前半が想定され、醍醐古墳群の被葬者たちの子孫がこれらの造営に深く関わっている可能性があります。


 

綾織塚古墳

 

●古代この地に綾織を伝えた姫の墓との伝承が あります。
●巨石を用いた横穴式石室の奥壁前には現在檀 があり、床もコンクリートで固められているために奥 壁の様子は観察できません。中には薬師如来の 石仏が祀られていますが、これが別称穴薬師古 墳の由来です。
●この古墳の眼下に山ノ神・鷺ノ口古墳群を見下 ろせること、近くに古墳は見られず独立している ことから山ノ神・鷺ノ口古墳群の中心的人物が 被葬されている古墳と考えられます。
●この古墳で注目されるのは線刻画が見られる ことです。羨道の東壁に1枚の木の葉が線刻さ れています。こうした線刻画は山ノ神・鷺ノ口古 墳群では他に鷺ノ口1号墳、山ノ神2号墳に見 られます。
なお、香川県内で線刻画は他に善通寺市宮ガ尾古墳と岡古墳群にもあります。


 

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