津田湾の古墳群


稲荷山古墳の画像

吉見稲荷山古墳

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 海に面した岬に立地し、海に関わりのある円墳古墳と思われます。明治時代に発掘され、その後墳丘上に稲荷社を祀られました。墳丘上には葺石が散乱しており、祠の北側は葺石を再利用して石列をこしらえています。祠の中にはご神体として安山岩が見られ、これは埋葬施設の一部であると思われます。
この古墳はまだ調査されておらず、時代など詳しいことはわからないが、現在お稲荷さんとして地元の人々に祀れれており、周辺はよく整備され、眼下に津田湾が広がり、津田湾の古墳群の特色が身近に感じられる古墳です。
—県道志度小田津田線(136号)吉見より徒歩3分—

吉見弁天山古墳の画像

 吉見弁天山古墳

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 津田町吉見、弁天社(新しく金毘羅大権現、恵比寿神社)の裏側に、尾根の丘状を利用して造った円墳です。明治時代に発掘され、人骨が出土したといわれています。墳頂部には石仏があり、その下に石棺の一部が露出しています。過去の記録では葺石の破片が散乱していると記載されているが、現状では確認できません。現状は、墳丘部は山林化されている。

龍王山古墳の画像1

龍王山古墳の画像2

 龍王山古墳

 市指定文化財  地図へ

 墳丘の直径 23〜27m の円墳です。一つ山古墳と同じく円墳ですが、前方後円墳に葬られている人と同等の権力を持った人物が葬られていると考えられています。墳頂部には南北を向いた長い竪穴式石室があり、畿内的な古墳のあり方が指摘されています。石室の底部を粘土床でかため、周囲に安山岩の割石をつみ、上部を板石で覆い、この中に木棺が安置されていたとおもわれます。全長は 5.9m もあり、3人は縦に入ることができます。
蓋石は安山岩と花崗岩を用い、石材間を小さな石材で充填し、その上を盛土したようです。家型埴輪や円筒埴輪が採集されおり、津田湾岸古墳群の中では新しい古墳であり、富田茶臼山古墳の作られる少し前のものと考えられます。現在竪穴の上に散在されていた石材を積み上げ、その上に龍王社が鎮座されております。また墳丘のところどころに葺石が見られます。







 岩崎山1号墳  地図へ

 岩崎山の頂上より下降した尾根づたいに四つの古墳が並んでおり、頂上から順次1号〜4号古墳と名づけている。岩崎山頂上にある古墳で昭和2年、偶然に発見され発掘されました。2個の箱式石棺が並列しており、ともに主軸は北北西に向けています。その東側の棺より頭を南にした人骨一体分、大刀一本(長さ 1.15m )、鉄製鎧一領、石製刀子2個、石製刀1本、月日貝(つきひがい)製貝器2枚。西側の棺より頭を南にした人骨一体分、大刀一本、剣身1本、貝器(前記と同じ)2枚、と他に例の少ないものが出土されました。
平成14年の測量調査において広島大学古瀬清秀博士は北西側尾根を前方部にした前方後円墳の可能性を指摘しています。現在は東棺のみが残され露出しています。



 岩崎山2号墳 

 箱式石棺の破壊された跡が認められます。



 岩崎山3号墳 

 円墳で未発掘のまま破壊され滅失されています。尾根の小高くなった箇所に葺石がみられます。


 岩崎山4号墳 市指定文化財  地図ヘ

 4号墳は山丘を利用した造った前方後円墳で、後円部の中央に主軸と直角の南北の位置に地山を掘って深い縦穴を造り、粘土で底を固め、川砂利を敷き詰め、四周に板状の石を以って竪穴式石室を造り、その中に長さ2m43cm の大きな津田湾火山産白色凝灰岩製割竹形刳抜式石棺を安置し、大石4枚でその室の天井を覆い、周囲に積石を並べ、天井の上を更に粘土で固めたものと思われます。石棺内には両端に石枕を造り出し、昭和26年に京都大学梅原末治博士が発掘調査を行った時、石棺内に人骨二人分の残骸を残すのみで、他のものは前3回(文化6、明治6、昭和2)の発掘で取り去られたようです。現在、津田郷土館で見学できる遺物(二神四獣鏡、直刀、勾玉等)はほとんどこの時の調査によって出土したものです。嘉永7年(1854)刊行された『讃岐国名勝図会』に文化6年(1809)発掘した当時の状況と、出土した鏡を『古鏡図』として図入りで紹介しています。古墳時代は今より海水が入りこんでいたと考えられ、岩崎山4号墳付近が当時の津田川の河口であり、大和方面から船に乗ってやってきた人々が必ず目にした古墳であったと推測されます。

 泉山古墳  地図ヘ

 昭和42年泉聖天尊本廟拡張工事中、30cm 土中で箱式石棺が発見された。自然地形の平坦な場所に地山を掘削して箱式石棺を築造しています。石棺底は厚さ 10〜15cm に粘土を敷き詰め北西東位で男性を埋葬し赤色顔料を散布し、その上に薄く粘土を敷き、またその上に南東頭位で女性を埋葬し赤色顔料を散布していた。石棺の外周は良質の粘土で固めていた。現在出土遺物(鉄製ヤリガンナとカマ)は敷地内の社殿の中に御神体として、泉山二社明神として祀られている。

赤山古墳  地図へ

 今は道路や宅地によって古墳は小さくなり、円墳のように見えますが、元々は全長50m近い前方後円墳でした。墳頂部には今2基の刳抜式石棺が見られますが、古い記録にはもう1基土の中に埋まっているとあります。
 大正14年この石棺は盗掘にあい、たくさんの副葬品が失われました。今のそのいくつかが現存しています。五色台の瀬戸内海歴史民俗資料館に鏡、石釧(いしくしろ)などが保管されています。
 今年、この古墳の調査を実施しました。古墳の形や大きさ、埴輪の特徴、石棺の特徴などさまざまなことが明らかになっています。成果はまた発表する予定です。楽しみにしていてください。

 鵜の部山古墳 市指定文化財  地図ヘ

 津田湾の古墳群で最初に造営された古墳です。津田湾(蟹甲湾)の鵜の部山半島の尾根上に造られた前方後円墳(全長 37m )で、盛土でなく石を積み上げた積石塚(つみいしづか)です。
讃岐では古墳時代前期に多く見られます。平成17年さぬき市教育委員会の発掘調査で広口壷が出土し、形状等からして、古墳時代も初期の出現期古墳であることが判り、高松市鶴尾神社4号墳、長尾丸井古墳とともに四国最古級の古墳です。
出土した土器類には甕、鉢などさまざまな日常器があり、このことから、古墳が造られる前に人々がそこに住んでいたと考えられます。現在、宅地造成により前方部は損じているが、後円部はよく保存されています。墳頂部に小祠があり、その下に板石があるのは石室の天井石に当たるものであろうかと思われます。

 

 けぼ山古墳  地図へ

 昭和15年頃発掘されたと云われており、また、勾玉、鉄刀、鏡、七尺位の人骨が出土したと伝えられていますが、遺物は現存していません。
全長57mの前方後円墳で同じ津田地区の岩崎山4号墳と大きさは似ています。墳頂部には縄掛突起のついた石室蓋石がありますが、蓋石に縄掛突起をつけるのは珍しく、奈良県佐紀陵山古墳(日葉酢姫陵)、屋敷山古墳、宮山古墳に類例があります。この蓋石の下には竪穴式石室があると云われ、さらにその中に家形をした刳抜式石棺があると云われています。
  遺物は埴輪片が採集されており、さぬき市歴史民俗資料館にはここから出土した壷形埴輪が展示しています。
  学術調査はまだされたことがなく、不明な点が多い古墳ですが、現在のところ富田茶臼山古墳と時期的には一番近いと指摘されており、香川県の古墳時代を語る上で将来的には欠かせない古墳になると思われます。



一つ山古墳

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 直径 25m 程の円墳です。24輩(浄土真宗の開祖親鸞の直弟24名、または直弟たちが開基した寺)を祀る時に発見されたといわれており、明治時代に盗掘にあった。その時朱に染まった人骨とその傍らに5寸ばかりの鏡があったといわれているが、遺物は現存していません。
平成17年、さぬき市教育委員会の発掘調査で埋蔵施設から刳抜式石棺(津田湾火山産白色凝灰岩製)を確認し、重要な古墳であることが判明しました。刳抜式石棺は讃岐では前方後円墳のみにみられ、円墳で確認されたのははじめてです。この古墳は円墳だから価値が下がるのでなく、前方後円墳の後円部と同じ大きさの円墳をもっていることから、埋葬されている人はこの地域の権力者であったと推定されます。津田湾の古墳群の特徴を良く著し、墳丘北及び東側は眼下に海が広がり、大和から来た使者が播磨灘を経て讃岐で最初に目にする古墳です。今後の調査で更に古墳の性格が明らかになってくるものと考えます。