霊芝寺


名 称:日内山ひうちざん霊芝寺れいしじ 宗 派:律宗 本 尊:十一面観世音菩薩
所在地:さぬき市造田乙井


かっては東林山遍照光院とうりんざんへんじょうこういんまたは火打山ひうちざん大岡寺たいこうじと号していた。1676年、高松藩2代松平頼常(徳川光圀の長男)は、寺号を東林山霊芝寺と改称した。1802年、8代頼儀は本堂を再建し、東林山を日内山に改めた。この寺は松平家の菩提寺であり、藩主の2代頼常、9代頼ひろの墓所がある。

霊芝寺本堂 奥の院




日内山山門

この山門は、雨滝あまたき城の裏門を移設したもので、普通の寺院棟門ではなく棟通りの前に親柱、後ろに控柱がある「薬医門」である。この方式は堅牢な構造であり城門、武家門などに用いられる。
雨滝城は、この地方の守護代であった安富盛長が築城、居城にしていた。

日内山の山門 山門の内側


2藩主の墳墓

2基の墓は、本堂の西100mの山腹にあり、径20m程の盛土を石で囲い、質素の中にも周囲に玉垣を廻らした大名の墓らしい威厳を備えている。
頼常は、徳川光圀(水戸黄門)の長男であるが、光圀の兄、松平頼重の養子となって2代藩主となった。53才で死去。 頼恕よりひろは、水戸藩主徳川治紀はるとしの第2子で、高松藩8代頼儀の養子となり9代をついだ。江戸の藩邸で45才で死去。

2代藩主頼常の墓 9代藩主頼恕の墓


雨滝城跡について

雨滝山は、海抜253mで独立峰である。1458年安富盛長やすとみもりながが頂上に城を構築した。 この地は、瀬戸の海を掌握する要衝であり、地形的には天然の要害になっている。 盛長、盛正、盛方、盛定と続いたが、1583年長宗我部元親に侵攻され、降伏落城した。 調査によると頂上に本丸を置き、三方に派生する尾根上を削り郭を造っている。東方に2郭、西方に5郭、北方に5郭が確認されている。          -2006.2.19撮影-

登山道から見た雨滝山 雨滝城跡頂上近くの道 城跡の説明標 城跡の祠
所在地: さぬき市大川町富田中216-1