さぬき市歴史民俗資料館 考古室ガイド
さぬきの古墳時代編

さぬき市歴史民俗資料館  Last update 2021.8.14

さぬきの主要古墳編年表

さぬきの主要古墳編年表

さぬき市の古墳時代前期の古墳マップ

さぬき市の古墳時代前期の古墳マップ

景初三年(239年)邪馬台国の卑弥呼が魏(中国)に使いを送り、魏の王朝から100枚の鏡を賜ったことが「魏志倭人伝」に記録されています。

卑弥呼か又はそのあとの人の墓と言われている箸墓古墳は最近の調査で250年頃に造られたらしくこれが一番古い古墳と言われています。

さぬき市でも各地に前方後円墳が豪族の墓として築造されます。

前期前半の古墳は在地的な性格が色濃い

丸井古墳(長尾西)前方後円墳

丸井古墳(長尾西)
前方後円墳(全長29.8m)

うのべ山古墳(津田町)前方後円墳

うのべ山古墳(津田町)
前方後円墳(全長37m)

丸井古墳出土の壺形土器

丸井古墳出土
壺形土器

奥3号墳出土の三角縁神獣鏡

奥3号墳出土
三角縁神獣鏡
京都府や奈良県の古墳
などから同型の鏡が
発見されています。/p>

奥14号墳出土装身具

奥14号墳出土装身具
勾玉が硬玉、管玉が碧玉、
小玉はガラス製

さぬき市では古墳時代前期前半段階は3グループが平行して造墓活動を開始しました.。

香川県の他地域の古墳に共通する在地色の強い古墳が築造されました。埋葬施設の東西主軸・積石塚など)

前期後半 墳丘規模が2倍近くの古墳が津田湾沿岸部に集中する

前期後半になると塚原古墳群で前方後円墳が築造されなくなりました。

津田古墳群では香川県内の他地域の古墳に先駆けて埋葬施設の南北主軸など在地色を脱しています。

古墳時代の政治の中心地である畿内地域の古墳(ヤマト政権)と密接な関わりを持つようになったことが墳丘の特徴や鏡などの副葬品から窺えます。

古墳を築造する場所は津田湾沿岸部に集中するようになります。海を介した外部勢力との交流が古墳立地からも推測されます。

一つ山古墳から発見された刳抜式石棺

一つ山古墳から発見された刳抜式石棺

岩崎山4号墳の斜縁神獣鏡

岩崎山4号墳の斜縁神獣鏡
大阪府古市古墳群の津堂城山古墳出土と
伝えられている鏡と同型で、
ヤマト政権と密接な関わりが探れます。

この時期の津田古墳群には刳抜式石棺や蓋石が採用されています。

火山石製刳り抜き式石棺は大阪府や岡山県、徳島県など外部地域の首長墓からも確認されており、首長間の交流を知ることができます。

中期前半 四国最大の前方後円墳富田茶臼山古墳が出現
富田茶臼山古墳の出現はヤマト政権による地域支配の完成を意味するようだ。

北から見た富田茶臼山古墳写真

富田茶臼山古墳(大川町)

  • 墳長139m
  • 盾形の周濠
  • 三段築成の墳丘
  • 陪塚を有す

古墳時代中期に入ると津田古墳群の終焉と呼応するかのように、内陸部に四国最大の前方後円墳である富田茶臼山古墳が出現します。

この富田茶臼山古墳はヤマト政権の中心地である近畿地方の古墳と類似点が多く見られます。

中期後半 ヤマト政権に服属する新たな社会が確立したと考えられる

さぬき市の古墳時代中期の古墳マップ

さぬき市の古墳時代中期の古墳マップ

前期から見られた前方後円墳が富田茶臼山古墳以後、ほとんどみられなくなります

朝鮮半島の百済からさまざまな技術を学び、多くの渡来人が海をわたってやってきました。

古墳の副葬品として馬具、鉄製武器や甲冑など武人的な性格が強まっています。

陵遺跡の初期須恵器・土師器

陵遺跡の初期須恵器・土師器
陵遺跡や尾崎西遺跡からは朝鮮半島に類似した
韓式系土器や初期須恵器が
出土しています。

これから順を追って古墳を訪問してみよう

古墳時代前期前半 古相(古墳編年1期)

丸井古墳

丸井古墳全景

三木町方面の平野を見下ろす丸井古墳は、高松の鶴尾神社4号墳とともに、県下最古の全長29mの前方後円墳です。
さぬきの初期の前方後円墳の特徴といわれるように、竪穴式石室は2つあり、その主軸は東西を向いています。

 丸井古墳前方部の先端から出土した広口壺

前方部の先端(写真の手前側)からは埴輪のルーツとも言われる広口壺が出土しました。
ちなみに弥生時代の壺は底が平で、古墳時代になるにつれだんだんと丸くなります(土師器)。

この丸井のものは弥生土器と土師器の中間の土器になります。
お墓に供えるときは底に穴を開けて供えていました。
弥生時代の石田高校校庭森広遺跡から出土した広口壺とよく似ていますね。 このことからも、弥生土器を使っていた人が丸井古墳に供えたものと言えるでしょう。

この壺は1個しかありませんでしたが、これを古墳の周りに置いたとすると壷形埴輪となります。善通寺の野田院古墳にはこの状態が復元されています。

画文帯環状乳神獣鏡(後漢鏡)

画文帯環状乳神獣鏡(後漢鏡)
丸井古墳第2石室出土
径14.2cm

銅境は鋳型で作ります。銅と錫と鉛でできた合金で、混ぜると溶ける温度が低くなり、作りやすくなります。
同じ鋳型で複数の鏡(同氾境)を作ります。ちなみにこの鏡から焼かれた鋳型で作られた鏡は同型鏡といいます。

画文帯神獣鏡は縁の部分が、厚く平らになっている平縁部分に、画文帯と呼ぶ絵画的な文様帯をもちます。
内区と縁との境界に、半円形と方形とを交互に配置した半円方形帯をもつものや、乳(円錐形の小突起)が神獣文の一部として環状に表現された環状乳神獣鏡があります。

日本、中国でも多数出土します。中国で3世紀、(後漢の中頃から)に製作されたと思われるが、日本からは約60面?しか出土していません。
奈良県天理市にある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見されました。
棺内の被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡1面と両側に刀1・剣1を置き、棺外には東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていました。

うのべ山古墳

うのべ山古墳周辺図
うのべ山古墳後円部写真

うのべ山古墳後円部

古代の風待ち港であった津田湾を意識した、積石塚です。うのべ山古墳(全長37m前方後円墳 )からは広口壺の口周辺部が出土しました。

奥14号墳

奥古墳群周辺図

奥古墳群古墳周辺図

画文帯神獣鏡

画文帯神獣鏡(後漢鏡)
奥14号墳出土

寒川平野から津田湾に抜ける峠道を挟んでたくさんの古墳(前方後円墳3基含む奥古墳群16基)があります。
奥14号墳は全長30mの前方後円墳で2基の竪穴式石室からは銅鏡2枚の他に鉄製武器、鉄製工具、勾玉・管玉・ガラス玉などの装身具が発見されています。
昭和47年にゴルフ場建設工事に伴って発掘調査され、13号墳・3号墳とともに現在は消滅しています。

前期前半 新相(古墳編年2期)

奥3号墳

奥3号墳竪穴式石室発見時の写真

発見時の奥3号墳竪穴式石室
現在大井地区に移築されています。

三角縁三神五獣鏡(魏鏡)写真

三角縁三神五獣鏡
(魏鏡)

 奥3号墳(前方後円墳)からは卑弥呼に関係するといわれている三角縁三神五獣鏡(魏鏡)が出土しました。
 鏡の周囲(縁)の断面が△形状になった大型神獣鏡です。
京都椿井大塚山古墳出土のものと同范鏡であります。

 表面は鏡面といい、凸面となっています。模様のある方が裏面で鏡背といいます。
 中央にひもを通す紐(ちゅう)があります。

 三角縁神獣鏡の鈕孔の形が一般と違い長方形(中国王朝の専属技師の作によく見られる)であるという特異性から、また国内で500面近く発見されているが、肝心の中国からはこの鏡が発見されていないことから、魏の王朝が卑弥呼や壱与に下賜するために特別に鋳造したのが三角縁神獣鏡であるという説が有力となりました。

古枝古墳

古枝古墳周辺図

古枝古墳周辺図

方格規矩鏡(後漢鏡)

方格規矩鏡(後漢鏡)
古枝古墳出土

斜縁神獣鏡(後漢鏡)

斜縁神獣鏡(後漢鏡)
古枝古墳出土

古枝古墳は全長34mの前方後円墳です。前方部が曲線をもって先端部に広がる撥形をしています。
後円部には竪穴式石室と粘土床の2基の埋葬施設があり、その主軸は東西を向いています。

奥古墳群や岩崎山4号墳とは津田川、陸路を通じてつながっています。この津田古墳群では川東古墳とともに地元的な特徴をもつ最後の首長墓であり、この次の段階からは地元色を衰退させた赤山古墳、岩崎山4号墳が臨海域に展開するようになります。

川東古墳

川東古墳周辺図

川東古墳周辺図

川東古墳は全長37mの前方後円墳です。石を積み上げて墳丘を造った積石塚です。
発掘調査は未だですが、後円部は積み石、前方部は撥形で盛り土している可能性があります。
うのべ山古墳とともに香川の積み石塚の東限になります。

両古墳は鶴羽から相地峠を経由して大川町に抜ける経路でつながっており、互いに地元の特徴の見られる古墳で共通します。

前期後半 古相(古墳編年3期)

赤山古墳

赤山古墳周辺図

赤山古墳周辺図

赤山古墳の二つの石棺

赤山古墳後円部、二つの石棺

赤山古墳石棺の朱

赤山古墳石棺の朱

前方部が削平される前の古写真を発見、不鮮明ながら前方後円墳の形が確認されました。
古写真と崖面の葺石から墳丘規模を推測すると全長約44mに復元されます。
これより前方後円墳は50mを超えるようになり”ムラ”の統合が進んだものと思われます。

墳丘全体に葺石が積まれ円筒埴輪が巡らされていました。
円筒埴輪は赤色顔料を塗布し、内面はケズリが見られ、岩崎山4号墳の円筒埴輪との共通点が見られます。

これまでの古い古墳は埋葬施設は東西方向を向いていましたが、赤山古墳には90度方向が違う埋葬施設(石棺)が2個あります。
これ以降古墳の造りに畿内勢力の影響が濃くなり、埋葬施設も南北方向を向くようになります。

又初めて刳抜式石棺(火山の凝灰岩製)が採用されました。
2基の刳抜式石棺が露出していますが、記録では3基あることが記されています。

香川県内で同様に1古墳に3基見られる古墳として快天山古墳があります。石棺の形からは、ともに最古の事例の可能性が推測され、しかもその特徴はお互いによく似ています。古墳の築造時期も似た時期であり、互いの密接な関係が推測されます。

一つ山古墳

一つ山古墳周辺図

一つ山古墳周辺図

一つ山古墳石室

一つ山古墳の石室
直径25~27m円墳

県内の円墳からはじめて刳抜式石棺(くりぬきしきせっかん)(火山石製)を確認した貴重な古墳です。
これまで、県内にある4世紀の円墳には石棺が埋葬されないと考えられていましたが、今回の調査によって初めて石棺が見つかったことから大変重要な発見となりました。

葺石は基底石に大型石材を使用し、その上は拳大の石材をさしこむように積んでいました。石垣状に積む香川の在地の古墳と異なっています。
墳丘裾には壷形埴輪が出土していることから墳丘を巡っていた可能性があります。この壺型埴輪には赤色顔料が塗られ、、地元で製作した技法であることが分かります。

前期後半 新相(古墳編年4期)

岩崎山4号墳

津田町津田にある、全長61.8mの前方後円墳です。
江戸時代の香川県について書かれた「全讃史」や「讃岐名勝図絵」などにも紹介されている古くから有名な古墳で、これまでも京都大学・広島大学による調査が行われています。
津田湾の古墳群の中では最大規模で、墳丘はそのほとんどを地山を整形して築造され、 葺石は基底石に大型の石をおき、その上に人頭大の石をさしこむ構造になっていました。

岩崎山周辺図

岩崎山周辺図

岩崎山4号墳石棺

岩崎山4号墳石棺

墳頂部に刳抜式石棺があり、形態から赤山古墳の次の段階が想定されます。
石棺の石枕は伝渋谷向山古墳出土石製枕、燈籠山古墳出土埴製枕に近似していることから大王と地域首長との交流がうかがえます。
図の石棺は現在再度埋められています。

岩崎山4号墳円筒埴輪

円筒埴輪上部分

古墳の周囲から多量の円筒埴輪片が出土しました。円筒埴輪の透孔は四角、三角と様々で逆凸形もあり、絵画を線刻した円筒埴輪も出土している非常に特徴的です。

円筒埴輪は赤色顔料が塗布されていました。形状をみると、埴輪の最上段の突帯から口縁部までの長さが短く、外反する特徴は将軍山古墳(大阪府)や快天山古墳(丸亀市)にもみられます。

岩崎山4号墳出土鉄・銅器

鉄・銅器

岩崎山4号墳出土の装飾品

装飾品

岩崎山4号墳出土の斜縁二神四獣鏡

斜縁二神四獣鏡(後漢鏡)

斜縁神獣鏡の同范鏡(同一の鋳型から造られた)は国内では発見されていませんが、この鏡は大阪藤井寺市の古市古墳群に属する津堂城山古墳のものと同型鏡の関係にあります。

岩崎山5号墳

岩崎山5号墳出土の内行花文鏡(倭鏡)

岩崎山5号墳からは内行花文鏡(倭鏡)が出土しました。

けぼ山古墳

けぼ山周辺図

けぼ山周辺図

けぼ山古墳石室蓋石

凝灰岩製石室蓋石

凝灰岩製石棺片

石棺の蓋部分片

4世紀の終わり頃、津田湾の古墳群最後の前方後円墳(55m)です。
墳丘は2段築成の前方後円墳で前方部は端部に向かって直線的に広がっていきます。
後円部頂上には西側は火山石製埋葬施設の蓋石が露出しています。両端に縄掛け突起が付いています。石棺の表面には部分的に赤色顔料の付着が確認できます。
壺形埴輪片が複数個所で発見されており、円筒埴輪ではなく、壺形埴輪を墳丘に巡らしていたと考えられます。

龍王山古墳

龍王山周辺図

龍王山周辺図

龍王山古墳

龍王山古墳

津田町津田にある、円墳です。
墳頂部と呼ばれる中央の高いところに、被葬者が葬られていた竪穴式石室が見えています。

石室は3人程度が入れる約6mの長さがあります。石材は安山岩の割石が使用されており、石室の方位が南北を向いている点が畿内地域の古墳と共通した内容であると指摘されていました。

今回の調査により直径約30mの円墳であることが分かりました。
また、古墳を造るにあたり人工的に盛られた土ではなく、自然の地形を削って円墳の形にしたことが分かりました。

また墳頂部にある竪穴式石室は古墳の中心から少しずれていることが分かり、もう一つ埋葬施設がある可能性も考えられます。
さらに出土した埴輪は、壺形埴輪、円筒埴輪、家形埴輪と多くの種類の埴輪が出土しました。

岩崎山1号墳

岩崎山1号墳出土の滑石製斧頭

岩崎山1号墳出土の滑石製斧頭
当館展示

直径18~19mの円墳です。墳丘頂部には2基の箱式石棺が並列しています。人骨、副葬品が出土しました。少数ながら円筒埴輪片が出土しています。

写真は滑石製斧頭です。この斧は実用品ではありません。
東日本に多く、瀬戸内海から西では岡山の金蔵山古墳と当古墳の2箇所しか出土していません。

中期前半(5世紀前半)(古墳編年5期)

富田茶臼山古墳

富田茶臼山古墳周辺図

富田茶臼山古墳周辺図

富田茶臼山古墳航空写真

富田茶臼山古墳航空写真

北から見た富田茶臼山古墳全景

北からみた富田茶臼山古墳

一見平野に造られているようにみえますが、南から下がってくる丘陵を利用して築造しています。
古墳のある地点は高松平野から続く平野の東端にあたる地点で、東から見れば広大な大川・長尾・高松平野への玄関口に当たります。
古代には近くを南海道が走っており、富田茶臼山古墳が築造された当時も南海道の前身にあたる幹線道路が古墳の近くを走っていた可能性があります。

平成元年度に国の補助を受け、発掘調査が行われ、古墳の規模と形・周濠や周庭帯・埴輪列や葺石の確認がなされた。古墳本体は未だ発掘調査されていません。

  1. 古墳墳丘部全長139m(四国最大の規模)で直径91m高さ15.7mの後円部と高さ11.8m幅77m の方形部ともに3段に築造されていました。
  2. 墳丘周囲には前方部に向かって次第に狭まる盾形の周濠が 巡り、その外側には周庭帯の存在も考えられることが判明しました。
  3. 西側に3基の陪塚を有します。

この古墳について、

江戸時代の文献には周りに濠があって、円筒埴輪が数多く埋められ、黒油石(讃岐岩質玄武岩)と言われる石が墳丘に多量に使用されていたことが記されている。

地元の古老から、昭和の始め頃まで、前方部には茶褐色の丸い土管のようなものが立っていたという話から、円筒埴輪が残存していたことが推測できる。
また明治時代の初め、後円部の石室あるいは石棺が開けられ、人骨や剣、玉等が出土したという話もあった。 この古墳は誰の墳なのか伝承はあるが解明はされていない。

昭和14,5年ごろに着工した県道高松長尾大内線工事では地元の反対にもかかわらず、後円部の墳丘と周濠の一部分が削り取られ、茶臼山古墳保存の上では、残念な結果を残すこととなった。

いずれにしても、茶臼山古墳は地元自治会の清掃奉仕活動や妙見さん・弥勒庵(約300年前、東隣の「通り池」を掘った際に出土した石仏を安置している)を中心とした信仰によって大切に保存され続けている。

神前古墳(円墳)

神前古墳出土の家形埴輪

寺尾古墳群は前方後円墳1基を含む30基の古墳で構成されている。神前古墳(寺尾古墳8号墳)(径15mの円墳)からは甲冑・鉄刀・鉄斧・鉄鏃などの鉄製品と、円筒埴輪・家・盾・動物などの形象埴輪が出土しました。また第19号墳には鉄製武器だけを副葬するものもあり、5世紀代における地方の軍事組織の構成がうかがえます。

中期後半

鴨部川流域の川上古墳、津田川流域の神前古墳、大井七ツ塚4号墳、5号墳など甲冑を含む古墳があらわれます。

川上古墳(円墳)

川上古墳からの出土品はこの頃の武人の古墳の特徴をよく表しています。
装身具が極端に少なく、鉄製武器を中心とする副葬品を配し、古式の須恵器を供献していました。
副葬する刀剣はまだ直刀ですが日本刀のように長くなりました。馬具類は装飾性の少ない実用品でした。

川上古墳発掘当時の石室

石積み木槨の特徴から
渡来人の影響が見られます

甲冑

甲冑

器台や瓦泉など須恵器

器台や瓦泉など須恵器

初期馬具

初期馬具

川上古墳出土の鉄製品

鉄製品

大井七ツ塚4号墳(円墳)

大井七ツ塚4号墳の二層式の埋葬施設

二層式の埋葬施設

旧大川町と寒川町の町境のこの地に今も七つの塚があります。
このうち4号墳の埋葬施設は二層式で下段のものは東西を向いています。この様な造りは朝鮮半島に見られ、渡来人の影響を思われます。
甲冑や武具が出土していますが、資料館には円筒埴輪と須恵器が展示されています。

ちなみに、奥3号墳の長大な竪穴式石室もこの地に移築されています。また竪穴式住居や石井廃寺跡もあり、一度は訪ねてみたい地です。

須恵器

陵遺跡出土の須恵器

さぬきで一番古い(5世紀)須恵器(陵遺跡)

中期は朝鮮半島から様々な技術が伝わてきた文明開化の時代といえます。
大仙陵古墳を始めとする百舌鳥古墳群の南方数キロの所、大阪府南部の丘陵地帯(堺市、和泉市、岸和田市、大阪狭山市)に多数の窯跡(陶邑窯跡群)が分布しています。

朝鮮半島から導入された窯を使って1000度以上の高温で焼成する須恵器の生産の中心として、平安時代まで日本最大級の窯業生産地として栄えました。
我国の窯業生産発祥地の1つと言えます。ここから、製品とともに生産技術が地方にひろがっていきました。

高松南部の三谷三郎池でもこのころの須恵器(初期須恵器)が生産されていました。
写真の前列の高杯2個は陶邑産で、左端後ろの壺と中央後ろの高杯形器台は三郎池産です。

須恵器の変遷

7世紀   ⇔   5世紀

須恵器の身の蓋受け部分が高かったがやがてだんだん短くなり、身の深さも今の椀のように深くなりました。

古墳の終焉

時代のリーダー達の権威の象徴が古墳から寺院を造ることに移行することで古墳時代は終焉をむかえました。
資料館には古墳編年1期(3世紀)から10期(7世紀)までの主要な単独墳22基と後期の群集墳5箇所を遺物・地図・写真付きで紹介しています。